Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

心理的予防教育

 いじめが正義ではないことは誰もが知っている。基本的に強者が弱者を虐げる状態をいじめとすれば、それは弱肉強食の社会では強者が弱者に勝つのは当然のことではあるが、正当な競争以外の面での力を用いたそれが倫理面で厳しく律せられている。
 しかし、他方で何処までがいじめではなくてどこからがいじめであるかは非常に曖昧な面がある。これらはセクハラでも体罰でも同じことなのだが、それを受ける当人が事実をどのように捉えているかに大きく左右されるのだ。すなわちは感情という流動的な指標に基づいた判断が求められる。
 安全側の思想に立つならば、少しでも危険性のあることは避けよと言う判断になる。実社会ではこうした指標に立った判断が数多くなされており、むしろ社会活動の多少の弊害は看過してでも危険性を避ける方法に社会的意識は向いている。こうした傾向はどちらかと言えばいじめとそれ以外の閾を下げる働きをする。いじめと判断される範疇を広げるのだ。

 確かに、社会的に問題となっているいじめ問題や体罰問題などは多くの場合度を超したものであり、常識的判断に委ねて見過ごす訳には行かないものが多い。しかし、こうした問題の責められるべき出来事とそうでない出来事の境界は社会的常識の範囲で妥当に定められるべきものだと思う。どちらに行きすぎても社会にとって良い結果を残さない。
 そこには二つの意味が存在すると考える。まず一つにはその境界がいじめる側など加害者側に広げられた時には、当然被害者の苦痛が増加する。基本的に力の強い側が有利であるという原則をそのまま用いればこの結果が現れるのは当然のことで、過去においてそう言う社会が蔓延していた面もあるという反省に基づき現在の教育やハラスメント対応が定められている。すなわち、社会における機会等の平等化に寄与させるというものだ。社会における競争を否定せずに公平性を保とうと考えるならば、機会の公平性を最大限保たなければならない。現代社会においてそれが十分機能しているとは言い難い面もあるが、正当な競争以外に力を振りかざしてはならないという倫理的側面だ。
 もう一つは、弱者側に配慮するあまり社会があらゆることに対して消極的になってしまうような状況が考えられる。被害者が悪い訳ではないが、包括的に見た場合タブーをどんどんと生み出す事で思考停止が進み、結果的に妥当性が低いことまで問題として扱われるようになることは社会全体としては大きなデメリットでもある。どんなケースでも生じる事ではあるが、悪を駆逐しようとして規則を厳しくすることで善意の者まで消極的な活動に抑え込まれてしまう。
 実は、いじめ問題や体罰問題とは関係ないところでもこのような傾向は現代日本のあらゆるところで見付けられる。弱者保護という否定できない建前を押し通すことで、社会全体が少しずつ不都合になっても仕方がないという消極的コンセンサスと言っても良いだろう。最初の例と比較すればこちらのケースは結果の均衡を図ろうとする考えだと思う。

 私は、社会の均衡を保つためには両者のどちらにも偏ってはいけないと思うのだが、そのバランスは実のところ非常に儚い。微妙なさじ加減を調整できる人や機関が実質的にはほとんど存在せず、多くの国民の相対知としての雰囲気がそれを左右する。だから、声の大きな圧力団体等の風圧によりいつもこの天秤は揺らいでいるのだろう。
 さて、弱者保護を否定するつもりは全くないのだが、それと同時に社会的な弱者に分類される人たちの抵抗力というか社会的体力を向上するという考え方もあるだろう。病気で言えば、感染後の治療に対して予防医学と言った感じだろうか。病気にかかりにくいように如何に備えておくかは、非常に重要な考え方ではないだろうか。いじめや体罰は、病原菌と同じように抑え込むことはできても完全に無くすことはほとんど不可能である。社会が成熟することで、それが発生しにくい環境を整備することは当然重要ではあるが、こういう問題は事後の対処ではなく事前の対策の方が効果的なものである。
 生じた後のセーフティーネットと同程度以上にこうした社会抵抗力を高める教育というものがあってもよいと思うのだ。いじめが無くならないのは、それがおそらく人間の本能に基づくものだからだと思う。理性によりある程度は抑え込めたとしても、枷が外れる時には必ず表面化する。

 場合によれば近年の反韓デモや活動も、私は一種のいじめではないかと感じている。怒られにくい相手を選んだ形のそれなのではないだろうか。韓国の日本に対する驕りは私も腹立たしく感じることは確かにあるのだが、それでも個人に向かうのは由とはしない。
 弱者側の防衛的な意味ではないが、自分の心の中におそらく間違いなく潜んでいるこうした感情と如何に付き合っていくのかを学ぶのには丁度良い素材かも知れない。