Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

生活保護二段階論

 兵庫県小野市で生活保護受給者がパチンコ等のギャンブルに興じることを禁止する条例が提案されようとしている(http://www.j-cast.com/2013/02/25166876.html?p=all)。常識で考えれば、生活保護の受給を受けてそれを無駄使いするのは許し難いという反応は、普通に考えればそれほどおかしなことでは無い。ただ、どこまでが贅沢・浪費と見なすのかについてはなかなか難しい面もあり、その境界線上の問題には担当者も頭を悩ませることとなる。実際には、度を外れた極端なケースが対象とされるのだろうが、相互監視を招きそうでギスギスとした社会になるという声もあるようだ。

 こう言った議論の時にいつも思うのだが、現状の生活保護受給者には大きく言って二つの層が含まれている。一つは容易に治癒しない病気や高齢化で社会復帰が実質的にできないケース。もう一つは、離職等により再就職が容易にできない一時的なケースである。この両者は性質も状況も明らかに異なる。全く違う両者を同じ土俵で議論しても、この制度の方向性や問題点は決して見えてこない。
 前者は人として最低限の生活を確保するためのもので、放置できないという福祉国家としての最後のセーフティーネットである。このケースでは、無駄使いをしようが何をしようが生活保護の受給を止めてしまえば確実に彼らは容易に死に至る。生命維持装置を政府や地方自治体が本当に切れるのかと言えば、無駄使い程度でそれを行うのはおそらくできまい。ここに自業自得で片付けきれない難しさがある。一種北朝鮮の焦土交渉にも似た自分自身の命をかけた交渉は、その大いなる矛盾点を理解しながらも人道的見地からはね除け難い。もちろん、世論からの批判を恐れての判断である。
 後者は、働ける環境を別に整備するということにより生活保護から基本的に脱することが可能である。恥の文化を善意的に考えれば、生活保護と言う自らの立場を少しでも早く脱したいというのが当然だろうと思うのだが、多くの生活保護を巡る不正受給等のトラブルはこちらのケースで生じている。この部分は仕組みとして失業保険の延長として機能している。不景気が続いていることから当該範囲に含まれる人の数も増加しているし、この範疇にいる人の声の方が大きい面もあるだろう。

 さて、前者は基本的に自ら稼ぎ出すという意味での社会復帰が不可能である。こうした人たちを如何に処遇するかというのは、ある意味において社会の懐の深さを象徴する。姥捨て山が普通であった時代から考えれば、弱者の犠牲を最小限に抑えることが可能な時代ということで現代日本の生活の質は間違いなく向上している。突きつけられている問題は、その積み上げてきたものを今後の維持し続けられるのかということである。
 維持すべきと言うのは誰もが持つ願いであるが、難しいのは真っ当な稼ぎをして年金も払ってきた人たちとの格差が現在では焦点となっている。仮に、最低限の生命の保証のみを国や自治体が請け負うとするならば、その場合は集中的な管理をした方が効率的なのは言うまでもない。非人道的だとか差別を助長するという声があるのは知っているが、社会復帰がないと仮定すればある種やむを得ない判断もあるかもしれない。保護費用を最低限に抑える仕組みを導入する。現物支給でも良いし、いろいろと知恵はあるだろう。こうしたカテゴリーをⅠ種生活保護と考えよう。
 次に社会復帰が可能な状況の人たちには、一般社会への復帰を容易にするために徐々に減じていくような仕組みが必要だ。ケースによって様々なもの(例えば母子家庭等)があるため一様には決められないが、原則的には徐々に保護費用が減じられていく仕組みが望ましい。早期の社会復帰を促すと言う意味もあるが、最も気にしているのは生活保護が子供にも引き継がれる傾向が高いことがある。その環境が日常になる常識になることを防ぐのが最も重要なことだと思う。こうしたカテゴリーをⅡ種生活保護とする。こちらには、就業支援などの様々な政策が導入されるべきであろう。
 場合によればⅡ種がⅠ種に変わることもあるだろうが、社会復帰を目指す人のケースを取り上げてそれが望めない人全てに同じ手当がなされるのは少々違うようにも思うのだ。

 この二つの生活保護システムは基本的に目的が全く異なっている。しかし、そもそも状況が異なる人々を同じ生活保護としてくくっている現状がおかしいのだから、それを現状に合わせて括り直そうと言うだけのことである。どちらにしても、社会においては基本的に働かざる者喰うべからずが大原則なのだ。ただ、それが諸般の事情により成し得ないからこそ生活保護という制度が必要なのは理解できる。これは社会のセーフティーネットとして健全なことである。ただ、その両者を敢えて混同して保護者の権利を強く主張しようとする向きがあるが、これらは基本的に状況により的確に分割することでもう少しわかりやすくなりそうではないか。
 ケースワーカーの不足などが言われているが、Ⅰ種生活保護者の集まる集落に公共の医療・福祉・介護などのサービスを導入することなどにより、Ⅱ種の人たちの評価に労力を集中させる事ができるのではないかとも思う。あるいはボランティアの受入などもあっても良い。
 まあ、一部の人々からは非人間的だと非難も受けるだろうが、果たして今のままで良いのかどうかは考えてみるべきではないかと思う。