Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

文明と文化

 一週間ほど前のことだが、かつてのプロジェクトで議論や作業を共にした古い友人達が久しぶりに集まり再会を楽しむと共に、雑誌の企画として現在までの経験を踏まえた軽い議論をする機会があった。その中の一人が面白いテーマを持ち出していたのでこれについて少し考えてみたい。
 まず、文明の進化とは何なのだろうかという事がある。私達は、それを深く考えずに文明は進化(あるいは進歩)し続けていると考えている。確かに新しい技術が次々と生み出され、それに後押しされるように社会も大きく変わっている。彼はそこで比喩的表現として、
 「文明の進化は質量を減じていくところにあるのではないか。」
と問いかけた。あくまで事例の話ではあるが、貨幣は石から金属を経て紙幣になり今では電子データとなりつつある。自動車は重い鉄のボディーからアルミを経てカーボンファーバーにより軽量が図られる。それはあくまで典型的な事例ではあるが、言葉を換えれば存在が希薄になっていくと言っても良いかもしれない。
 材料や製品などで生活と切り離すことが出来ず、多くの競争者が参入するようなものをコモディティー(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%A2%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%86%E3%82%A3%E5%8C%96)と呼ぶが、その結果として製品などの顕著な特徴が消えていき価格競争に陥りがちなのは、近年の世界的な電気製品などの動きを見ていてもよくわかる。それは、電気製品が普及品となり誰もが比較的容易に接することができるようになったと言う、文明の成果の一つの形である。
 文明を生み出す方法の一つである技術が陳腐化すると言うことこそが、私達の生活を便利にしているしそれは同時に商品の存在感を希薄にしていることでもある。やや観念的な言い方ではあるが、空気のように当たり前に手にすることが出来るようになるものが増加することこそが、文明の進歩の形なのかもしれない。すなわち、文明は人間が生きていくための基盤を作り上げることに等しい。

 文明と対比されたり、あるいは同時に用いられたりする言葉として「文化」がある。どちらかと言えば文明が科学技術と結びついているのに比較して、文化は生活や芸術に結びついている感じがある。「文化が進歩する」という言葉が用いられることがないように、文明とは違いこちらは人間の本性に根付いているものに近い。だから、文化は流転することはあっても進化することがない。
 しかし、では文化が同じ地点をぐるぐると回り続けているかと言えば必ずしもそうではない。人間が行うものであるが故に似たことを繰り返す傾向はあっても、その繰り返しも毎回少しずつ異なっていく。これは、文化が文明という基盤の上に存在しているからであると思う。だから、文化に優劣は似合わない。基盤が異なっているという違いに過ぎないのである。すなわち、文明の進歩具合(おそらく方向性にも違いがある)をもって文化を語るのはおかしな話なのだ。

 ここで、進歩(あるいは進化)という言葉について考えてみたい。人間は万物の霊長と自分で呼んだりしているが、それはそもそも進化の結果故であろうか。この進化という言葉に疑義を挟む声が一部にはある。こうした変化は、進化ではなく特殊化だというのだ。一定の環境に合わせて人間は最も効率的に変化し続けてきた存在だと言うことである。
 だから、環境の激変があれば人間という種は容易に淘汰され、新しい種が地上を席巻するかもしれない。本来進化が成長の証であるならば、人間はその分幅広い環境への適応性を手に入れてしかりなのだが、技術としてのそれを獲得したものの存在としては特殊化し続けている。
 この議論は鶏と卵の話にも似ている面があり、環境に最適化した存在が良いのか、あらゆる環境に適応できる可能性がよいのかという議論にもなりかねない。ここまでいくと哲学論争の様相を呈してくるが、社会の様々な面において同じように議論は常に存在する。
 私達は、その問題と向き合い続けることが生きていく上での一つのテーマなのかもしれない。