Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

泣く子と地頭には距離を置け

 近頃の中国や韓国の振る舞いは、比較的温和しく寛容だった日本人の心に大きな疑問を突きつけた。もちろん人によって反応が異なるため、それでも彼らを擁護する日本人もいるだろうが、大きな流れは容易に変えられない。
 現状ほど未来志向という言葉が空疎に感じられることはない。1000年たっても恨みは忘れないというのは韓国人の流儀ではあっても日本人の流儀ではないのだ。だからと言って、韓国と断交したり協力関係を結ばない訳ではないし、中国との戦争が不可避だと言いたい訳ではない。両者にとって不満足ではあろうが、この状況の均衡を当面は続けざるを得ないという認識が必要だと考えているのである。
 韓国にも中国にも日本にも、自国なりの考え方や正義が存在する。それがバランスの取れたものかどうかは第三者や未来の歴史家が判断すべき事なのだろうが、こうした主張の食い違いはあったとしてもそれを飲み込んで交渉するのが外交である。ところが、今の中国や韓国は自国の主張に対して日本が一方的に妥協しなければ許さないという感じの言論が飛び交っている。もちろん日本でも一部の跳ねかえりが反韓運動を行ってはいるものの、国民全体の動きはそれほど目立たないし、現政権は比較的抑制のきいた行動を取っているように見える。

 こうした状況を俯瞰すると、大人の日本と子供の中韓という構図が見えてくるような気がしている。もちろん、国家に人間の大人や子供という関係性を当てはめることにどれほどの意義があるのかという意見もあるだろうが、子供じみた行動をこれだけ見せつけられればこんな風に感じてもおかしくはあるまい。
 先ほども書いたが、お互いの認識の違いを理解した上で交渉を行うのが理性的な外交なのだが、むしろ感情を利用しているというか感情に取り込まれてる行動は決して理性的とは言えない。理で説き感情で応えるのは何も夫婦や親子の喧嘩だけではない。かつてはそれが有利であったからこそ反日という感情を利用してきた。それが手段であった間はよかったのだろうが、目的にすり替わりつつある現状では、相互理解は難しいものになりつつある。

 「泣く子と地頭には勝てぬ」とは昔からある諺ではあるが、泣く子(韓国)と地頭(中国)にはいくら理を説いても叶わないと諺のように諦めてしまう訳には行かない。古い時代のように武力による露骨な圧力をかけられる訳ではないし、相手を本当に意味で納得させることもおそらくできない。子供や地頭にいくら論理を説明しても通じないのだから。
 だとすれば、大人として取る態度はおそらく距離を置くことであろう。中国と韓国とは緊密に繋がりたいという声があるのは承知しているが、それはあくまでその行為が日本という国に利益をもたらすからでなければならない。事を荒立てるのも日本にメリットがないとすれば、フェードアウトするように徐々に距離を置いていく。おそらく、日本人は喧嘩をするよりもそちらの方が得意である。
 そして遠回りではあるが、反日がいかに愚かな行為であったのかをわからせるように振る舞うのが大人として取る態度ではないか。大人が子供を教育するのは普通かも知れないが、残念ながら中国も韓国も日本の子供ではない。むしろ日本の兄を自称しているのだから、兄でいながら成長しきれなかった国の尻ぬぐいを日本がする必然性はない。

 文明の発達は世界から距離の概念を大きくぬぐい去った。だとすれば、単純な距離の近さはそれが全てに勝る優先順位ではないだろう。