Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

善意と弱者保護

心に余裕があるうちは善意を信じることができるが、余裕が無くなれば善意はその姿を巧妙に変えてしまう。医は仁術か算術かは、日本が民主国家になる随分昔から常に問い続けられてきた問題だ。人の命というお金には換えがたいものを守る存在として、現在においても日本の医療は市場原理の導入には消極的である。私はそれ自体を悪いこととは思わないが、だからと言ってぬるま湯に安穏としてしまうような状況が訪れるのであれば危機感を抱く。
生活保護の病巣 利権・練金道具と化す「医療扶助」の闇(http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/121125/waf12112518000025-n1.htm
生活保護を利用した医療報酬の積み重ねは、よかれと思い設けられたシステムを悪利用する方法である。法的には罪を問うことができないかもしれないが倫理的には許されるべき事ではない。マスコミが取り上げるようになってきたことで事態は沈静化に向かうかもしれないが、それを期待する心理は別の新たな手口を生み出すであろう。

民主主義における制度設計というものは、基本的に弱者には性善説をそして強者には性悪説を採りやすい。強者が権力と結びついている場合にはこの大前提が崩されることも少なからずあるだろうが、それでも多くの場合には法律により容易な権力との結びつきを抑制している。しかし、多くの場合にはどちらかと言えば弱者の方が小さな悪と結びつきやすいのは、様々な事情があるだろうが私達の知るところであろう。そして、その小さな悪事はより大きな悪事の食い物とされる。

弱者保護は社会の度量として必要なことである。特に成熟した社会だからこそ、その成熟度に見合った社会的弱者の保護が求められる。ただ、保護するから成熟した社会なのか、社会が成熟したからこそ保護すべきなのかは議論が尽きないところである。
私は、社会が成熟するからこそ保護できる社会的な余裕が生まれると思うのだが、同時に保護すべきという倫理や心理面は社会が成熟しなくとも育むことが可能だと感じている。宗教が最も大きな役割を果たすとすれば、こうした制度や社会の成熟が不十分な時の精神的なケアとしてではないか。現実に現代社会においても宗教が一定の地位を占めてはいるが、人々を経済・金銭面で実質的にケアするのは社会である。
そして、制度の不十分さを宗教がフォローしているのだと思う。

善意は望むべき理想ではあるが、それは強制によってはならない。だとすれば、善意が本当に社会に根付くためには社会が心理的に豊かでなければならない。物質的なそれは一時的に心を満たすだろうが、精神的な豊かさはより長い満足感を私達に与え、それが更なる善意を生み出す事となる。
経済的な貧しさが生活の満足感を奪いがちになることは、全てではないだろうが事実であると思う。特に一度豊かな生活を経験した上でそれを手放すことは多大な苦痛を伴う。それ故に、経済レベルの急激な落ち込みは社会全体における心の豊かさに大きな影響を与える。すなわち、経済を無視して社会の善意を語ることは現実を見ない行為になる。
しかし、経済的な繁栄が心理的満足と合致するわけではないことも同時に私達は知っている。経済的なものはボーダーラインとして意味を成すが、それ以上には影響しない。心の豊かさや満足感は、私達が何を成し何に取り組むかという生き方そのものによりもたらされる。自分らしい生き方を渇望し、選択した生き方に満足感を覚えることであろう。
心の退廃が、すべきことや生き方そのものに対する虚無感から生まれているとするならば、せめて幾分かでもポジティブな思考や論評が溢れる社会にすることで、その悪循環を断ち切ることができないものかと感じてしまう。
弱者保護は、個人においても社会においても前向きな心理状況により成し遂げられるのだ。