Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

社会的寄生

生活保護に関する世論の高まりもあって、今後徐々にではあろうが支給額は減額されることになるであろう。現実として、年金受給者より未年金受給者(すなわち年金を払っていない人)の方が多くの金額を受け取るとすれば、社会的なバランスを欠いているのは間違いない。
生活保護制度は、社会的なセーフティーネットとして非常に重要な役割がある。ただ、世の中にはこうしたシステムに寄生する人間が少なからずいるのも事実だ。今の動きは、社会に貢献せず社会に寄生して利得を受けようとする人たちに対する不満の一環である。この動きからわかることは、こうした寄生者をできる限り排除していこうという流れが大きくなりつつあることだ。
昨今も、お笑い芸人が自身の母親に生活保護を受けさせていたと非難を浴びている。既に持つ者がその社会的な役割を担わなかったと言うことにおいては非難は正当であろうが、それは個別の問題のみならずそれを助長する雰囲気を含めて問題とされなければならない。
私も社会的な不正義(生活保護の不正受給や、年金と生活保護の費用的な歪み)に関しては正されるべきだとは強く思う。ただ、その副作用として社会的寛容さが失われていくのだとすれば少々気になるところである。社会的な不正義を正すという一見正しい論理が、その不正義の程度が微妙なものにまで振るわれるようになれば、その恣意は正当性を失いかねない。

さて、生活保護の問題だけでなく近頃はニートの固定化というか、パラサイト中年が300万人もいるという話まで飛び出している。これは完全な無職を意味するわけではないが、生活費の一部(主に居住費)を親に依存するという形である。大家族世帯が普通であった時代にはありふれた風景だったかも知れないが、現在では確かに平均的な姿ではない。
ただ、考えてみればそもそも家族は助け合うものであって、パラサイト中年などという言葉を使用する理由は、パラサイトそのものではなく結婚せずに独立しない中年が多いということの婉曲な言い回しに感じられる。
パラサイトとは、寄生(wikihttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%84%E7%94%9F)のことを意味する言葉であるが、社会に寄生するものが多いのが社会的に問題なのかと言われれば少々疑問がある。そもそも現代社会が全ての人が個別に満足な生活が送れるのかと考えれば、それは難しいのではないのかと思う。それが理想であることは否定しないが、仮に日本がそのような国家を実現すると言うことは、それだけ世界から富を簒奪しているということの裏返しでもあると考えるのだ。
あるいは完全な共産主義が成立すれば実現できるのかも知れないが、それも絵空事であることは歴史が示している。資本主義である以上富は偏在する。それは社会の格差を生み出し、その底辺の生活レベルを向上すると言うことは国際的な利益を国全体としてあげる必要がある。

実際、日本では世界的に見てかなり良いところまでそのような社会を実現しつつあった。もちろん、それは少し前まで経済戦争の勝者であったと言うことがあるだろう。ただ、グローバル化が一定以上広がった今ではそれも言えなくなりつつある。だとすれば、現状のシステムを継続する以上は格差を埋めるための方法として社会的寄生はある程度許容されるべきことなのかも知れないと思う。
問題は、それが私的に行われるか公的に行われるかである。生活保護問題は、それを公的に行うレベルにストップをかけるものと考えればよい。それに代わるのは私的な寄生、言葉を換えれば相互扶助と言ってもよい。
「お互い様」という言葉が通用する範囲ではあるが、かつての経済成長前の日本ではその文化は十分に存在していた。今でもなくなったわけではないだろうが、社会保護制度の充実により私的な相互扶助を気にせずともよかったのが少し前までである。

では、そもそも寄生者は社会にとって無駄なのか。私は無駄ではないと思っている。もちろん個別で考えれば社会的に意味が無いとも言えるだろうし、ヒューマニズムの見地に立てば無駄な命など存在しないという意見もある。
ただ、寄生者が全くいない社会というのは巨大な資源国でもない限り、覇権的国家でなければ成立し得ないとすれば何らかなの形で社会的弱者は保護され(寄生でき)なければならない。それは、保護される側に必要なことではなく、保護する側に必要なことなのだろうと思う。言い方は悪いが、保護する側のモチベーションは保護される者がいるからこそ維持される部分がある。
よく、会社などでも10いれば、3ほどがよく働き、3ほどがあまり働かないなどという話がある。これは社会でも同じことで、どのようなグループを作っても必ずそう言った層が生まれる。その層を無くそうという考え方は崇高だが、それを実現できるとはあまり思えない。強いて言えば平均値を上げる努力をするだけである。
だとすれば、私達が目指すのは社会に寄生せざるを得ない人々の生活レベルを上げることであり、社会の縮小ではなく拡大を目指すことであろう。その上で、公的な補助が困難になれば私的な補助を充実させるしかない。おそらく私的な相互扶助は公的なそれを諦めた時に始まる。あるいは、社会的な成功者が拠出できるような公的システムの構築が必要となるかも知れない。