Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

名誉

金銭的な成功を収めたものは、次に名誉を欲するという事例は何処でもよく聞くことができる。この名誉は、特定の分野のみならずより多くの人に自分のことを知って欲しいという気持ちの裏返しでもある。そもそもある業界での成功者は、既にその業界では有名人であろう。それにも関わらずに名誉を求める姿勢は本人のあたらなる向上心と取れなくもないが、多くの場合には勝算や尊敬をより広く集めようとする心理に基づいている。
本来名誉は自ら得ようとして得られるものでは無く、多くの結果や賞賛を得て形作られるものである。ただ、それを形にすることで恩義を売ろうというものと、手っ取り早く名誉的なものを得ようというものの妥協として、勲章などと言う制度が生み出されたのではないだろうか。いや、それを評価する人の心は移ろいやすく、それ故に一定の段階で不変の形に変えて残そうという考えがあったのかも知れない。理想論のみを言えば、真の名誉は勲章などという形を取らなくともよいだろうが、記録されないそれは儚いものなのである。
名誉を記録するために始められた賞が、逆に目的と化してしまうのは世の常であろう。

それが自己目的化しているかどうかは別にしても、名誉は成果の対価として得られるものである。名誉は道具ではない。すなわち、経済的な成功の後に名誉を求めるという心理は、自らの成功が社会から評価されていないという不満の裏返しなのかも知れない。あるいは、経済的成功と社会的名誉がなかなか両立することが難しいと言うことでもあろう。
ところで、この名誉を賞のような社会的な名誉の固定化によって得ようとするケースとは別に、社会的認知度を向上させることをそれと取る向きもある。実際には、社会に広く認知されることを名誉のように錯覚するものなのかもしれないが、TV等に出るというステイタスを名誉と認知することだと思う。逆に、芸能人などはまず露出することで多くの人に知られ、その結果が金銭的な成功に繋がるという意味では名誉的な社会認知が経済的成功の基になっている。

現実には、この社会的認知は自らがコンテンツとして消費されることなのだが、その消費に押しつぶされないだけのものを持っていれば長期間のメディアへの露出に耐えうる。それは必ずしも名誉とは同一ではないのだろうが、それに近似した満足感を与えてくれるのかもしれない。
ただ、本当の名誉とは人に表だって賞賛されることではないのは誰にも判ることでもある。それを形あるものに替えようとしたり、あるいは類似した何かにより代替しようとするのは、賞賛されたいという気持ちと共にどこかに自分はそれに値しないという気持ちが残っていることがあるのであろう。
名誉とは心の内にあるものである。誰かに助けてもらい築くものでは無く、自分の心の中に自ら打ち立てるものであって、誰かからの賞賛や羨望とは無縁のもの。すなわち、自分自身が納得すべきものであるべきだろう。
自分自身が納得できると言うことは、同時に多くの人が納得することでもある。それが自己満足が先に立ったり、あるいは他者評価が不満であるというのは自分に対する厳しさが不足している事に所以するのではないかと思う。加えて、本来結果でしか無く私達が直接関与すべきものでは無いそれを、自らの力で操ろうとすることに問題の根本がある。

もっとも、小さな村社会では不必要な名誉の形式化も、社会が大きくなればなるほどに最低限の必要悪として存在しなければならないのも事実である。ただ、それは社会を構成する上での方便だと言うことを認識しておくことは必要なのだろうと思うのだ。

「名誉は結果であって目的ではない。」