Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

ステマやごり押しは悪?

流行語大賞の候補に「ステマhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%B1%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0)」が入るほどにその言葉の認知が広がった行為ではあるが、もちろん近頃突然始まった現象ではない。それどころか、宣伝の発達と共に常々進化し続けているマーケティングhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%B1%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0)手法の一つである。従来から「サクラ」を用いた宣伝はごく普通に用いられていたし、宣伝マンの方からすれば如何にそれと気づかせないままに認知させるかは、業界の王道手段と言って良いスキルの高さを示す舞台ですらあると思うのだ。古くは繰り返し連呼することで意識の中に刷り込む宣伝方法が行われていたが、コマーシャルが溢れる現代ではそれが却って消費者の反発を受けてしまう。それ故に考え出された方法論の結果として存在する一手法である。
このように一般的手法ですらある「ステマ」が問題とされる理由の一つには、遠回しではあるが巧妙な世論誘導を行ってきたマスコミに対する反発が飛び火したのではないかと私は感じている。それが正鵠を射ているかどうかは別としても、不正なあるいは不公平な行為を行っているという認識があるからこそ問題とされているのであろう。

一方で、ごり押しは一部芸能人の露出を高めることで架空の人気を生み出して世論を引き寄せようとする方法であるが、こちらは開き直ることまではしないものの押し出しを隠そうとはしない。一種、ステマが発達する前の伝統的方法とも言えなくはない。
どんな方法を使ったとしても露出を高めることが、結果に結びつくという考え方である。韓流ブームもその流れの一つにあり、一部の世の中の情報を能動的に取りに行く人たちからは毛嫌いされても、その他大勢の受動的情報取得者達には緩い刷り込みを可能とする。
これだけネットなどで叩かれても次々行われると言うことは、それ相応の結果を導くことができるという実績があるのだろう。また、韓流の場合には国際的な感情のもつれもあり上手く行かなかったものの、芸能人為実力があればこうした反発は跳ね返せるし、また反発自身が一時的なものではないかという過去の成功体験があるやも知れない。
ステマ」にしても「ごり押し」にしても流行を生み出そうという商業的利益に狙いを定めた行為であって、商慣習的には必ずしも非難を受けるような行為ではないと思う。もちろん、一部の健康食品販売などで行われる明らかに事実をねじ曲げた宣伝行為は詐欺に該当する可能性もあるだろうし、あるいはそれには当たらなくとも意図的に勘違いさせて高額の商品を売りつけるような行為は倫理的にどうかと思うが、ではそれを全てなくすべきかと問われればそれも違うように感じる。

私自身は、正直言ってこうした誘導的宣伝は消費を彩らせる一つの装飾のように思っていて、その宣伝に乗る(あるいは流行に乗る)のも遊びとしては悪くないと思っている。それは、規制でがんじがらめになりがちな社会に小さなアクセントを与えてくれるというプラスの側面があるからだ。確かに社会の成長から考えればほとんど貢献しないものかもしれないが、その程度のスパイスすら入り込む余地のない社会は寂しいではないか。ただ、装飾と認識するためには主体的に情報や問題を理解しなければならず、それが大変だと宣伝媒体たるマスコミが叩かれることになる。
本当に問題があるとすれば、それは単発の「ステマ」などではなく社会の寛容性に甘えて倫理の逸脱を常態化させてしまうことにある。人間とは慣れる存在であってごり押しをする側もされる側も、その状態が心地よければそれが普通として感じてしまう。自覚した上で宣伝に乗る者あるいは拒絶する者からすれば、そのぬるま湯のような共依存関係は好ましくないものに見えるだろう。その上で、共依存関係の受益者がある時自らが騙されていたと騒いだとして、往々にしてその無自覚さを批判されるか若しくは宣伝を振りまく企業側が否定されるかのいずれかとなる。

結局のところ、露骨に人を騙すような宣伝は法に基づき厳正に処罰されるべきであり、ステマ程度はネットでも何処でもが取り上げて周知されることでその効果を大きく減じるとすれば、現代社会はそれになりに上手く機能している。もちろん、ネットを利用しない人たちはそこで情報を得られずに上手く乗せられてしまうこともあるだろうが、それも多様性のある社会の一つの結果ではないか。少なくとも人々の生活を過度に侵害しなければ存在を許されてもよいのでは無いかと思う。
もちろん、愉しく生きていく上では受動的ではなく能動的になる方が有利であり、自分に必要な情報は信頼できるところで得て自分で納得した上で利用する。その方がきっと楽しめるのも事実であろう。