Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

勝ち組と負け組

 人生の勝ち組であるとか負け組であるとか言ったフレーズが、しばしば週刊誌や匿名掲示板では持ち出される。言いたいことはわからなくないが、勝ち負けを決めるのは競技などの第三者による判定があるものを除けば、本来は自分自身である。週刊誌などで語られる勝ち組負け組は、多くの場合自分が負け組だと考えているものの視点から語られることが多い。あるいは第三者がこうした視点をなぞりながら書く場合もあるだろう。たまには事業に成功した人が自慢げに自らを語ることもあるが、考えてみれば勝ち組と負け組の違いは何を評価軸として考えられているのであろうか。単純に負けたものの僻みであると考えるのも少し違うような気がしている。
 勝ちの基準を収入と見る向きもあれば、社会的な知名度や地位であると考える人もいるであろう。一方で、大企業でよい収入を得ている人が独立して起業するケースも良く聞くが、事業が成功すれば勝ち組で成功しなければ負け組なのかと問われれば必ずしもそうは思わない。一国一城の主として一定以上の生活が送れることを羨ましがる人は少なくない。

 自らのことを負け組と評するのは自虐的な捉え方ではあるが、日本の場合は大部分を占める中間層からの落伍と抜け出しにより語られることが多い。評価は勝ち組と負け組の二分ではなく、どちらでもないその他大勢と対照される勝ち組負け組なのだ。加えて、この勝ち負け自体も本来は一つの指標のみで評価できるものではないはずではあるが、何か気になる指標のみを取り出して面白おかしく比較が行われる。これは、勝ち組や負け組という評価を心底自慢しあるいは卑下している訳ではなく、話のネタとして活用しているのだと言うことでもあろう。
 「隣の飯は白い」と言われるように私たちは相対的な地位を常に気にしており、微妙な優劣に一喜一憂する。相対比較はモチベーションの維持には有効ではあるものの、あくまで補助的な指標としてのみであって、自らを本当の意味で奮い立たせるのは絶対的な能力を自己評価することにある。もちろん自己評価が完全な絶対評価ではないものの、他者との比較のみが全てであればお互いが切磋琢磨するライバル関係でもない限り伸びシロは見込めない。

 結果的に言えば、一時的な勝ち組であっても傲らず、一時的な負け組であってもふて腐らない。勝ち組や負け組という表現は、自分には直接関係ない人たちを客観的に眺めて無責任に分析する場合であるか、もしくは話のネタとして自虐的に持ち出す(それは自らの心を慰める意味もあるかも知れないが)ようなノリなのだろうと思う。仮に本当の意味で這い上がれないような負け組になった折には、自らのことを人に足して負け組などと宣伝できるはずもなかろうし、あくまで自らの不遇を記号化することでネガティブ思考を回避しようとする防衛的行動ではないかと感じている。

 例えば、良い大学に合格する。良い企業に就職する。良い収入を得る。・・・これらは、それを手に入れた時点では確かに勝ち組と言えるだろう。しかし、問題は価値は永続的なものではないし、逆に負けも永続的なものではない。人生における勝ち組や負け組は、結局の処自己の目標を新たに作ることを続けられるものが勝ち組であって、それを諦めたりハードルを大きく下げることが負け組ではないか。だとすれば、ありきたりの言葉になってしまうが結局自分自身に負けたのが負け組なのだ。