Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

やせ我慢

我慢はストレスを生むから健康のことを考えればしない方が良いという考え方もあるだろう。ましてや必要な我慢ではない我慢をやせ我慢と呼ぶのなら、それは無駄な努力を意味することになる。
しかし、このやせ我慢は客観的な無益さとは別に主観的には非常に大きな価値を持っている。そして、私は昔からやせ我慢のできる頑固親父になりたかった。
そういえば、かつて一度我慢についてエントリを起こしたことがある(我慢はすべきかせぬべきか:http://d.hatena.ne.jp/job_joy/20120104/1325606705)。その時はやせ我慢にまでは触れていなかったが、我慢は理性を麻痺させることではなく理性を保ち続けることであると書いた。やせ我慢こそは、理性無しには保ち得ない。

やせ我慢とは、客観的に見れば必要性の低い我慢を行うこと。もちろん、何の信念もなくやせ我慢する人はいないだろう。そこには自分なりの信念があるからこそ耐えられるのである。そして、有する信念を他の人と共有できないからこそ「やせ我慢」と評されることになる。当人にとっては我慢でも何でもなく、信じる道を進むために甘受すべき困難を経験しているに過ぎない。その困難も我慢には違いないだろうが、意に沿うか沿わないかは大きな違いである。
かつてはそんなやせ我慢が社会的には一定の評価を受けていたようにも感じているのだが、現在はどちらかといえばやせ我慢に対する評価は低い。無駄な努力という一言で片付けられているようにも思う。確かに、合理性の面から見えればはなはだ的確性を欠いた行為であろう。

ところでファッションなどで奇抜な衣装を着たり、最近では過度にズボンを低くずらしたりと、個人的にはそのこだわりはどうだろうかと疑問を抱かざるを得ないものも見かける。こうした自分なりの考えに基づく行為はやせ我慢と何が違うのだろう。
まず、上記の行為そのものは我慢ではなく自己顕示の一環だ。だから、それが当人の生き方だったとしてもそれは好きなことを勝手にしているに過ぎない。そこには葛藤がほとんど見られないのだ。両者には、自分の信念が社会的には受け入れられないと理解しているという意味では似た点が少なからず存在するが、その相違を吟味せずに自己主張を行うか、それとも十分吟味した上で敢えて自らの信念を押し通すかの部分で違いがあると感じている。
やせ我慢は、自らの特異性を自らの責任として強く意識する。その特異性の責任の所在を自らにあると自問自答する。それは自己をアピールするための見せかけの特異性ではない。戦国時代以降の「傾奇者(かぶきもの)」とも少し異なり、自己の生き方をそれにおいて虚飾とは別に主張する厳しさが存在すること。頑固親父のそれは、自己主張のためのものではないのだ。

誰にも認めてもらえなくても良い。それにより自己の存在を主張するわけでもない。それでも世間と衝突する時には整然と自己の考えを展開する。仮にそれを批判されたとしても、自己の意見の展開が自分に大いなる不利を与えるとしても、やせ我慢をしてでも自らの信じる道を行く。
それは、皮相的ではない生き方の美学ではないだろうか。自分なりの美学を貫く様は、表面的に真似ることもできるだろう。ただ、貫けるだけの信念は一朝一夕に身につくわけではあるまい。そこには生き死にに似た覚悟が必要なのだ。政治家の政治生命のような軽いものではない。あるいは自己犠牲のような陶酔でもない。生き様そのものについての美学の追求をそこに見る。

残念ながら、理想とするほどの生き様を私は少しもできていないし、心すら定めるようなところにも達していない。世の中では、そのような頑固がむしろ軽蔑されるような風潮さえ感じられる。それは、やせ我慢が短期的な利得に結びつかないからであろう。むしろどちらかと言えば大きなデメリットになりかねない。
それは、社会が大きな目標や計画を立案できなくなってきていることもあるだろう。複雑に発達した社会では、僅か崎野未来ですらその動向を読み切れるものではない。故に、長期的な目標に向かって計画を推進するよりもむしろ短期的な成果が重視されるようになっている。長く続いた平和と成長の影で、社会自体が長期的な我慢に対する耐性を失いつつあるからだろう。
しかし、短期的な成功では金銭的な満足感はあっても深い精神的なそれは容易に得られない。やせ我慢とは、浅い満足ではなく深い満足を探究する術の一つではないだろうか。もっとも深い故に狭く、人には理解されないという面もあるのだろう。

「頑固親父ブームでも起こらないものだろうか。ちょっと楽しみにしているのだが。」