Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

根性論と平和主義

 体罰教師の問題は、容易に解決の道がないのは多くの人が感じているだろう。と言うのも社会的に許容されるべき体罰は、どれだけ問題が広がってもやはり存在していると思う人が少なくないからである。しかも、その許容の閾値は場所ごと(あるいは個人ごと)に異なっている。また、体罰と言う行動の背景の一部にあるであろう根性論に関してはあまり言及されることはない。
 甘えを戒める意味での体罰は、家庭での躾にもあろうし私はそれなりの意味を有していると思う。ただ、それがエスカレートした状態での根性論には、一定の効果があるのは認めるもののデメリットも見過ごせない。ヤンキースの黒田投手が厳しい指導を受けた時代からすれば、今の状況が苦痛ではない旨のことに触れているようだが、誰もが黒田投手にはなれないのも事実である。

 根性論に一定の説得力があるのは、モチベーションの持って行き方において一定の成果を無視しえないからだと思うが、逆に言えば他の方法でもそれを満たせれれば良い。努力が報われるというのは理想ではあるが、その方向性として精神論ですべてが語れるほど簡単な問題ではない。結果として根性論が一定の意味を持っていたとしても、それはあくまで結果論であって過程としてどうであったかはよくわからない。
 今ではスポーツなどでも科学的・論理的な指導がかなり普及してきたが、それでも肉体面や技術面の指導ではなく精神面の指導として根性論は一定の地位を誇っている。それ故に、指導がエスカレートすれば体罰や暴力行為として問題となる。精神面の指導においても、現在では伝統的な根性論とは別に様々なメンタルトレーニング(http://www.cramer.co.jp/training/mental_01.html)が広がっている。
 根性論も内包する長所があるのだから、その良い点をバランスよく抽出できれば大きな効果を得られるであろうが、どうも私が受けるイメージは伝統的な手法が最も良いといった偏った感じである。これには指導者次第のところがあると思うが、前近代的な指導方法のイメージと根性論が結びついて感じとられている面があるのかもしれない。
 近代的な根性論がどこかで展開されているのかも知れないが、忍耐力を付けるためのトレーニングは様々あるだろうが、根性論という精神論と結びつくようなものは寡聞にして私はまだ知らない。

 さて、ここで考えている所謂「根性論」は原理主義と似たところがある。自己などの経験を基に努力の大切さを実情よりも過度に賛美するイメージである。愚者は経験に学ぶと言うが私のちょっと偏った意見を書かせてもらうとすれば、経験というメリットデメリットが整理されていないごちゃ混ぜのものと自らが掲げる理想論を融合させたものではないだろうかと推測している。
 ところで社会には似たようなものは何かないかと考えてみると、ひょっとしたら日本における(9条に傾倒した)平和主義が非常に似ているのではないかと思いついた。もちろん、平和を否定している訳ではない。理想としてあるいは目的として非常に崇高で大切なものだと私も常々思っている。ただ、それを維持するためには何か一つを守ればよいとか特定のものに象徴性を期待することについては、プロパガンダとしての価値は見出すものの実態としての有効性には疑念を持つ。

 世の中は流転し社会の状況は常に変化する。一時期に良かったものが次の時代にも最善であるという保証はどこにもない。憲法9条の平和に対するメッセージ性は理解するし賛同したいが、それが戦争抑止にどれだけの実効性を有しているかの部分になればやはり疑問を持つ。
 9条に過度の価値を見出すことは、それを用いて平和を維持してきた他の数多くの努力の意味を減じてしまうのではないかと思うのだ。戦後の一時期の、しかも一要素である憲法9条が平和を永らくもたらしたという論は、短い経験に基づいた結果論の話しかしていない。
 こうした話をすれば9条の象徴としての意味合いを強調されると思うのだが、象徴は象徴にすぎず精神的に理解する者にとっての価値は大きいが、それを理解しないものにとっては全く意味がない。9条が平和に効果を発するとすれば、世界中の国々がそれに敬意を表し同じような制度を導入しようと動くことが必要である。しかし、その世界を見てもそれを導入しようという声は小さくか細い。

 理想を抱くこと自体には意味があると私も思うが、それは現実的なステップと効果が明確に検証されなければ絵に描いた餅でしかない。極端な話を言うならば、まだ根性論の方が効能が論理的に整理されてはいないものの信奉する人が多いとすら思うのだ。