Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

絶対は相対に従属する

人間社会とはそもそも相対的な関係により維持されている。私達は誰かよりも少し豊かな生活を求め、誰かよりも少し多い幸せを期待する。他者との比較は社会の活力となることが多いが、自己を絶対的な尺度で捉える事は決して容易なことではない。
容易ではないと言うよりは、そもそも人は基本的には価値判断における絶対的な指標を有してはない。確かに狭い領域を区切れば擬似的な絶対指標を見いだすことも出来るかもしれないが、俯瞰的に見れば容易なことではない。相対的な世界は、ありとあらゆるものから影響を受けて物事の認識が定まっていく。それは一つの理論などで言い表すことが出来ないものであり、その中で正解を導くことは容易では無いというかむしろ不可能である。答えというものは、あくまで断片を切り取った中での最適解(らしいもの)をそう呼んでいるに過ぎない。
だからこそ、その不安定さに耐えきれない人間は世界を大きく包む絶対的な指標を欲するようになる。あるものは万物を司る統一理論を追い求め、あるものは絶対的な存在としての神を求める。どちらにしても、相対的であやふやな状況をそのまま受け入れがたいが故の拠り所である。宗教は、結局のところ何が正しくて何が間違っているかをそのたびごとに判断することに疲れた人たちが、絶対的な指標としての判断基準を委ねてしまうことで成立する。

私は、あくまで個人的な意見ではあるが無神論者であって神を信じない。と言うのも、この世界の中に全てを司る絶対的な存在があったとして、その存在が人間と何らかのコミュニケーションを取るとは思えないからである。仮に万物の造物主のような存在があったとしても、おそらく人間と神との間には直接的な関わりが存在し得ないのではないかと考えている。そこには交わすことが出来ない断絶があると思っているわけだ。あくまで私の考えではあるが、そうだとすれば存在があったとしても関知されないものである以上は無いと同じではないかと思うのだ。
また、仮にコミュニケーションを取ることがあったとすれば、その時には既に神は絶対的な存在ではなく相対的に世界に組み入れら得る。人間と同列にある変えるような相対的な存在の神を認めるのであれば、確かに神はいておかしくないと思わなくはないが、それはもはや絶対的な拠り所としての価値を失った存在となりはてる。人々が神に望むのはその絶対的な指標としてだと思うからである。

余談が長くなってしまったが、私は人間社会における絶対という概念は、相対の中で一部切り取られたものではないかと思う。それは、地域・範囲的、あるいは時間的に一瞬あるいは部分を抜き出して評価する擬似的概念だと思うのだ。
だから、私達は普段絶対的なものの中での相対性を説明しようと試みることが多いのだが、実はそれは全く逆のことであって絶対性は相対性の中に存在するのではないかと思うわけだ。
「美」であっても「正義」であっても、私達は普遍的なそれが存在しつつも社会の中で様々に変質していくが故に違いがあると考えがちだが、実のところ曖昧混沌とした相対的認識の一部を切り取ってそれを「美」であるとか「正義」であるとか言い争っているに過ぎない。その一部を切り取ったものであっても短い人生の人間にとっては意味があるだろうし、移ろいが激しい社会においても価値がある。
加えて、量子的存在ではないがこの世界はお互いの相互的な認識により成立している。その複雑さ故に全体像は一個人には容易に理解できるものではなく、だからこそ人は頭の中における絶対指標を心の安息のために追い求める。それは、むしろ「渇望」という呼称の方が適切だと思うのだが、自らの拠り所を常に求めようとしてしまうのだ。

しかし、仮に絶対が相対に含有されるとすれば、絶対の中に相対を位置づけしようという努力は自己満足としてしか意味をなさない。私のこうした認識が正しいかこそが「神のみぞ知る」といった感じなのだが、絶対的存在の居場所はどこにあるのであろうか。