Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

文化のクレバス

 欧州移民による文化摩擦については既に数多くの報道も為されているが、こうした情報を無視した移民政策推進や世界市民的な考えの提示や訴えは一向に減る気配がない。その様は、イデオロギーを超えて一種のアイデンティティの一部となっているようにすら感じられる。
 現在見られる移民政策推進の主張は、主に産業界から日本の労働年齢人口の減少に対応するという建前で給与削減を狙って競争力強化のために検討され、逆に世界市民的な考えは平和推進の目標の中で実質的に世界の生活水準まで均一化しようという発想に近い。両者は考え方や目指すものは下手すれば全く逆向きのものではあるのだが、それでも結果的に導かれるところは似通っているようにも見える。
 要するに、労働者階級における世界のフラット化だ。前者は競争力確保のために安い賃金を追い求めることでなされ、後者は世界を均一化したいというイデオロギーの下で進められる。しかし、こうした生活水準や賃金あるいは生きていくための権利のフラット化が逆に文化の違いを際立たせる結果になっているとは思えないだろうか。権利や生活水準が近づくからこそ絶対的な違いを受け入れられなくなり、自分の我を通すことが可能となる。

 何も私は差別や身分差が社会にあることが正しいと言っているのではない。しかし、その差が極端なまでに大きければ文化の違いは飲み込まれて消えてしまう。それは強引にこそ理由があるのかも知れないし、押さえつけられる側の我慢と忍耐により成立するのかも知れないが、社会的にはそれほど大きな問題とはなってこないでも済ませることができるのだ(もちろん現代社会ではもはや許されることではない)。
 ところが、こうした生きていくための標準仕様が狭いバンドに近づいてくれば来るほど、文化の違いと言うものが絶対的な意味を帯び始めてくる。ヨーロッパで起きたことも、当初は移民の数が少なかったということも理由の主要な部分ではあるだろうが、同時にこの「文化のクレバス」とでも呼ぶべき大きな溝がクローズアップされることになった。これまでは生活レベルなど層の違いが大きかったため、本来あるはずの溝がなかなか見えてこなかっただけなのだと思う。そして、それは生活レベルが上の方の人たちに顕著である。
 ところが、世界がフラット化すればするほど些細だと思っていた違いが絶対的な障壁としてせり上がってくる。最終的にはこの障壁(溝)も乗り越えるのが理想なのは間違いないが、当初思っている程簡単なことではないのだと思う。

 移民政策にしても、世界の国境を取り除く活動にしても、その障壁の大きさをもう一度見直す必要がある。かつて想定していた見積を見直さなければならないという設定変更が必要であり、それがこれまでのスタンスを変えることに繋がるが故に、彼らはその見積変更を無視するか遠ざけている。しかし、おそらくはその溝の深さを直視しない限り本音と建前の大きな乖離を抱えたままの融合を図ることになる。建前上は何の齟齬もない施策ではあるが、本音との違いが大きいほどに抱える矛盾も広がっていく。
 私達人類がそれを乗り越えていくことこそは追い求める理想だという崇高な目的には敬意を表したいと思うのだが、それをちょっとの努力で乗り越えられると考えられるほど私は楽観主義者ではない。今必要なことは、まずその溝の深さを誤魔化すことなく直視することから始まるのではないかと思う。そして、それは産業界であろうが市民団体であろうが世界のフラット化を目指そうとする人たちにこそ直視して欲しい現実ではないかと思う。