Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

多文化共生

 特に思いめぐらせることなく素直に考えれば、多様な文化が仲良く共生できる社会が素晴らしいのは言うまでもないのだが、同時にここで用いる「共生」とはいったい何なのかという疑問も感じてしまう。字面を額面通り受け取れば「共に生きる」ことであるが、生物界の共生(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E7%94%9F)は複数の生き物が相互関係を持ちながら共に生きていく姿を言う。
 ナイルワニの口の中を掃除するナイルチドリ(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%89%E3%83%AA)が共生関係の一例として語られることもあるが、口の中の残りかすを食べるというのは口伝に過ぎず実証されていないとの話もあるようだ。ここに出るように、「共生」は共に役立ちあうというのが前提のように考えられやすいが、現実の「共生」には明確に分離できないものの以下の4形態があるとされる。

 1)相利共生:双方の生物種がこの関係で利益を得る場合
 2)片利共生:片方のみが利益を得る場合
 3)片害共生:片方のみが害を被る場合
 4)寄生:片方のみが利益を得、相手方が害を被る場合

 多文化共生のイメージは1)の相利共生であることは言うまでもないが、現実の社会において成立するためにどのような条件があり今何が不足しているかを考えることが求められる。最初から複数の文化が混在しているものとして思考を巡らせれば、混在が前提であって文化同士の融合や触発は望むところであろう。他方、当初一つの文化しかないところに異分野が入り込むという前提に立てば、入り込んだ最初に軋轢が生じるのはある意味当然で、双方がどのように歩み寄りながら妥協点を探るかという方向性が求められる。
 実は、今社会で行われている多文化共生の議論は上記の2つの立場が分けられないままに行われているという感じがしている。別に日本国内ですら様々な文化は存在するし、世界の新たな文化を素直に取り入れるという文化的柔軟性を日本人は有している。もちろん、自ら持たない文化が日本人にとって使えるか使えないかは当然あって、使えるものを上手く取り込むということではある。
 しかし、多文化共生とわざわざ訴えかけないといけない理由は単純にスタイルとしての文化の問題ではない。多くの場合は文化を基にしたアイデンティティに関する問題だ。他者の保有する文化を尊重できるかどうかということである。そこでは、必ずしも文化の混淆を目指しているわけでは無いというイメージを感じる。

 私は、多文化共生は文化の融合により新たな文化の創出を導くことに最大の意義があると考えている。この認識がそもそも正しいかという大いなる問題はあるが、単純に異なる文化を有する複数の人が同じ場所に住んでいるということのみでは、「共生」ではなく「共存在」に過ぎないと思うからである。
 異文化が出会う黎明期には共存在から始まるかもしれないが、コロニー(外国人街)を作り出すなど同じ地域に分けて住むだけではとてもではないが多文化共生とは言えないであろう。現実には異国の地に来た外国人たちは、生きていくための互助組織が必要となるのは理解できる。しかし、本来それは最初の段階のみに許容されることであって、徐々にではあっても癒合していくことが求められる。
 実は文化の融合は、イメージとしては良いものの本人たちにとってはアイデンティティの喪失につながりかねない大きな問題であって、なかなかそれを許容することがなできない。すなわち「共存在」の状況が長期間固定化されることにつながる。

 欧州におけるロマ族やイスラムの問題なども基本的には構図は変わらない。呼び寄せた当初の理由は動労者の確保であっただろうが、いつの間にか国内に多数のコロニーが生み出され文化的交流はわずかに行われるだけ。これではとてもその状態を1)の意味での「共生」とは呼べない。
 むしろ、社会制度にただ乗りする4)「寄生」する存在であると捉える人たちが出てもおかしなことではない。ネオナチなどに代表される欧州の極右はこうした論理で外国人排斥を謳う。もちろんその他にも複雑な理屈はいろいろとある(職を奪う、人種差別的思想、etc.)だろうが、社会に寄生する異物という認識が最も主要な基準となっているのではないか。

 今というかずっと前からではあるが、多文化共生が謳われる一番の理由は建前上は1)の相利共生であるものの、現実の活動は4)の寄生を固定化するために行われることとなっているのではないかというのが私の抱く最大の疑問である。
 私も多文化が触発し合って新たなイメージや文化が生まれていくことは非常に興味ある、。そもそも、私自身は多くの文化を感じてみたいと思っているし、別に人種や文化を通じての蔑視感情も全くない(と自分では思っているつもりだが)。
 ただ、民族や人種を通じてのアイデンティティを保持したままでの文化交流が容易ではないとの感じも抱いている。日本文化が欧米でクールと一部ではあるものの広がっているのは、日本人のアイデンティティがごり押しされているのではなく、表面的なそれが相手に受け入れられたという面が強いと思う。
 だから、日本人以外が欧米で和食店を開いているエセ和食というものが一部で非難されることもあるが、これも日本文化の普及を量の面で広げるという意味では必ずしも悪いことではないという感想を抱いている。もちろんその後に質の意味でそれを広げる努力がきちんと続くというフォローが重要であるが。

 多文化が触発し合うような機会がないかと問われれば、文化のみで言えば今の時代メディアでもネットにも溢れている。youtubeでは世界の動画を見ることができるし、私たちはずっと前からせきあの音楽や映画に触れている。あるいは多くの日本を愛する外国人が日本テレビ番組に出演して文化の違いを面白おかしく伝えたりする。すなわち、文化を受け取る側からした多文化共生は実のところほぼ実現していると言ってもよい。
 これは受け入れた異文化を受け入れるという、受け取る側の論理であることはまさにその通り。問題とされている多文化共生は、日本に来たばかりで日本の文化に馴染めない人たちを救済する意味であったり、あるいは日本に長年住みながらコロニーを築きアイデンティティを守り続ける人たちの権利獲得のための活動となっていやしないだろうか。
 もちろんこの両者の活動も重要な意味を持っている。日本の文化を知り積極的に文化の癒合を試みようとする人たちに対しては大いに役立つであろう。しかし、文化の融合は双方が利点(メリット)を分け合えることが基本である。このメリットは定量的なものではなく認識論に帰着する。どのように社会が認識しているかが最大のポイントとなる。

 一時期問題となったが、朝鮮人学校が授業料免除やその他の補助金を受け取れるかどうかが議論された。この時焦点となったのは、建前上は法律の問題であったが現実的には文化において融合せず排他的な教育を行っているかどうかではなかったかと思う。一般生活では社会に癒合しているので個人として補助を受けられるという考えと、学校教育としては日本のシステムや文化を受け入れていない(実質的には北朝鮮主体思想を教えこむ場所となっている)ので駄目だということ。
 その他、工作機関であるとか様々な理由が背後には隠されているものの、結局多数存在と少数存在の間に見られる文化の融合には、必ず一定のアイデンティティの喪失を伴うということがあろうと思う。別に絶対的な条件ではないが、新たな文化的発展を生み出せば自己のアイデンティティはそこに軸足を移す。こうしたこのアイデンティティの変化を拒絶してしまう場合を見ると、なんだか多文化共生という言葉は空回りしむなしく響いてしまうように私には感じてしまう。果たしてどうあるべきなのか。

 繰り返しになるが、それでも異文化が交わることの意義は非常に高いと私は思う。日本に住んでいる日本人はその文化の質も量も豊富なため、少なくとも日本人でいるというアイデンティティを容易には喪失しないでいられる。他方、自分が外国にいても自分自身のアイデンティティは守りたいとも思う。もちろん郷に入らば郷に従うつもりはあり、全てに対してアイデンティティを最優先するつもりはない。
 アイデンティティを守るのは、おそらく異文化を受け入れる社会側ではない。あくまで個として自分が必死に守り同時に築いていくべきものであろう。存在や立場を守ることは社会のシステムとして、その上で多文化の存在を認めるものとして重要である。
 固有のアイデンティティを希少生物のようにそのまま保護することには私は意義を見いだせない。本当の意味での多文化共生が実現するとすれば、異なる文化を受け入れることではなく自らのアイデンティティ固執しないこと(自らのアイデンティティを水型のものとして自信をもつこと)によりそれが成し遂げられるのではないだろうか。