Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

世界は純化と融合のどちらに向かう?

 歴史を見ると、異なる民族間の平和的融合が図られるのは多くの場合強大な国家が異民族間にわたって支配を広げた場合に多く見られるように思う。もちろん、商売のみでいえばシルクロードにみられるように異文化間の交流は過去から数えきれないほどあるが、それは異文化のものの交流ではあっても、異民族同士の平和的融合とは言い切れない。あくまで、異文化を都合の良い部分のみ受け入れて利用しているに過ぎない。もちろん、異文化の選択的取り込みであっても長い時間をかけると文化の融合は成立する。人類は、その結果多様な文化を花開かせてきた。

 しかし、権力による縛りがない社会においてその融合は果たしてうまくいっているのであろうか?例えばアメリカは人種のるつぼと呼ばれ、最も成功した異文化の融合社会かもしれない。移民により成立した国家であるゆえに、他の国々と比べると門戸は非常に広い。
 現在でも、どんどんと世界中からアメリカを目指そうとする人がいる。人口比率でいけばヒスパニックとアジアンの増加が目まぐるしいのが特徴と言えるであろう(http://www.jil.go.jp/foreign/labor_system/2004_11/america_01.htm)。確かにアメリカは人種のるつぼであるが、その文化融合には大きな血が流れているのも事実であろう。黒人奴隷が解放されたからまだそう長くはない。私の穿った考え方かもしれないが、今後白人の人口が減少を続けるとすれば、アメリカが現在の広い門戸を開き続けるかどうかは微妙なところではないかと思うのだ。

 その傾向は欧州で顕著に見て取れる。一時期、アラブ人やアフリカ人を安価な労働力として多数受け入れてきた欧州ではあったが、ここにきてその文化摩擦は社会不安すら引き起こし始めている。多民族共生と言う概念は崇高で素晴らしいが、モノや習慣のみの受け入れは成し遂げられるとしても、人そのものの交流が容易ではないことはわかる。
 これを乗り越えるべき課題だと考えるのか、現代社会では廃しきれない障壁と考えるのかは様々な意見があるだろうが、少なくとも早急に結論を出せるものではないと思う。私自身もこの課題は乗り越えるべきものであってアンタッチャブルにすべきではないと考えるが、同時に早急に結論が出せるものでもないと思っている。この早急と言うスパンは10年,20年のスパンではない。100年以上かけての融合なら不可能ではないという感覚だ。

 世界中では、今でも激しい対立が続いている場所が存在する。それは国家間の紛争もあるだろうが、多くの場合は内部的な対立により生じている。スーダンにおける大虐殺(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BC%E3%83%AB%E7%B4%9B%E4%BA%89)は、日本ではあまり報じられなかったが何百万人と言う人がこの時代に内戦により命を無くしている。 
 そして現在もミャンマーで大きな宗教的対立が発生しており、一部では虐殺と呼べるような事件が生じている(http://www.youtube.com/watch?v=hiih-pdmmHEhttp://mainichi.jp/select/news/20130622k0000m030083000c.html)。仏教徒イスラム教徒の間の紛争と言うよりは、どちらかと言えば仏教徒によるイスラム教徒虐殺の様相である。これは、人口をどんどんと増やすイスラム教徒による国家乗っ取りを懸念してだという内容を仏教指導者は述べている。そして、この一方的な迫害をアウンサン・スーチーは黙認せざるを得ないというのが現状のようだ。一部の地域ではイスラム教徒のみが子供を二人までしか持てないという法律を制定している(http://www.washingtonpost.com/world/two-child-limit-imposed-on-some-muslims-in-western-burma/2013/05/25/6d791bb8-c55a-11e2-9fe2-6ee52d0eb7c1_story.html)。それだけ仏教系の国民たちは切実に危機感を感じており、道義的には非難しても実質的にはこれらの声を無視できないという状況がある。

 これらは単なる権力闘争ではない。無論、国家の主導権を誰が握るのかと言う面は存在するが、それ以上にこれは宗教を含めた文化摩擦なのだ。考えてみれば、第二次世界大戦後に新たに分離・独立した国家は多いが融合した国家はごく一部にしかない(ドイツ、ベトナムは分断国家であったし、チベットは中国により強引に併合された)。その上で、ドイツの場合には人種的・文化的な差異は他で見られる紛争と比べれば無いに等しかった。
 事実のみを見れば、世界は文化的には純化の傾向を高めていると考えられる。多彩な文化を国家として維持し続けるためには中国のような中央集権体制でもなければ無理なのではないかとさえ感じさせられる。もちろん、それが文化の融合として望ましい形とは私は思わないし、多くの人もそう思うであろう。ただ、長い歴史を経た後にはひょっとしたら違う見解があるのかもしれない。

 こう考えると、世界は宗教を含めた文化的には徐々にではあるが純化の方向を目指しているように見える。むしろ、日本などの一部の地域の方が宗教と言う面で見れば比較的寛容かもしれないとさえ思う。また、もう一つの面を忘れてはならない。それは国家の経済力である。経済的に豊かな国家は、多彩な文化に比較的寛容でいられるのである。アメリカもそうだし、かつてのイギリスもそうであった。古くはローマ帝国もそうだったかもしれない。
 文化の平和的融合を実現するためには、経済的に豊かでなければならない。これは深刻な民族紛争が先進国よりも貧しい国々で生じていることでもわかる。世界が等しく豊かになれば、文化の融合は大きく進むかもしれない。ただ、国民の使用エネルギー量が先進国の中では最低レベルの日本でさえも、世界中の国々が日本人と同じ生活をするためには食生活で地球1.6個が必要(http://blog.livedoor.jp/dbek_work/archives/28060854.html)なのだそうである。その他のエネルギーを考えれば、もっと厳しくなるであろう。

 さて、私たちは世界中が豊かになるという不可能に見えるような命題をクリアできるのであろうか。それこそが、世界の文化を融合させるカギとなるような気がしている。