Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

文化摩擦

 多くの人たちは漠然とした願いではあるものの、世界中の人々が仲良く出来ればよいと考えていると思う。私自身も戦争なんてない方が良いと考えるし、国家間の争いは経済的なものや文化的なものも含めて少ない方が良いと思う。だが、現実には世界中で様々な摩擦が満ち溢れている。それが問題だと唱える人は数多くおり、解消すべきだと声を上げる人もいる。可能であれば実現してほしいと思うが、果たしてそれは可能な事なのだろうか。

 少なくとも、世界的に見れば人種的な差違のかなり小さな日本であっても、人種の違いに基づきすらしない諍いが暇なく起きている。何が違うのか。一方の人が横暴なのかもしれないし、あるいはお互いの誤解が広がってしまったのかもしれない。それを仲裁するための機構として、コミュニティがあり、そして警察があり、最終的には裁判がある。この日本に存在しているシステムが全ての不満を解消できるものだとは誰も考えていないだろう。だが、それでもなんとなく社会全体としては我慢できるギリギリの範囲(個別に見ればおかしな点は山ほどある)こそが、社会的に許容できるコストにおける限界である。
 世界的な文化摩擦であっても、完璧にこなそうとすれば信じられないような量のマニュアルを作成すれば、ひょっとすれば対応できるかもしれない。宗教的な争いから、歴史的な争いまで。物事を完璧に整理できるという前提に立った話ではあるが。だが、そのためのコストが社会生活を大幅に圧迫するとすれば、そんな方策は誰にも受け入れられないであろう。

 「ポリティカルコレクトネス」という言葉もかなりの社会的な認知を受けたと思うが、それが実現できた方が良いのは間違いない。だが、そのために社会全体が支払うコストが許容されるのであればという前提に立っての話である。現実の社会を見ると、誰もそうした社会が支払うコストの話をせずに、原理原則論のみを主張しているように見える。それを私は「政治的原理主義」と呼ぶべきだと思う。本来、政治は原理よりもできる限り多くの人が許容できる現実的な落としどころを探すことが仕事だと考えるが、世の中を見ると政治家と呼ぶよりは原理主義者が跋扈しているのが悲しい限りだ。特に、マスコミ関係にそうした考えを持つ人が多いように思う。彼らの多く(あるいはメディアに登場する一部かも知れないが)は自分を異なる場所において社会を論評しているようだ。
 「誰にも優しい社会は、誰もが阻害された社会」この言葉をどこで聞いたかは忘れたが、優しいというのはある意味の優遇措置である。メリハリと言っても良い。それを全ての人に振り撒けば、その状態が次のスタンダードになる。すなわち、それ以上の優遇をしなければ優しさではなくなってしまう。野麦峠時代の女工を思い起こさせるような話ではあるが、優しさとは相対的な指標である。

 さて、異なる民族の融和は概念としては望ましい。だが、本当の意味においてそれは可能なのか。文化の違いは人々の思考や生活習慣の隅々にまで染み付いている。それを変えることは多くのストレスを与えるのは知っている人も多いだろう。異文化の融合とは、基本的にストレスを多く生み出す場である。さて、そのストレスを引き受けるのは誰であるべきなのか。文化摩擦はその問題を抜きには語れない。
 優しい人たちはマジョリティが負うべきだという。一方で、現実はマイノリティがそれを負っている面が大きい。そしてマイノリティを救うべきだという声が上がる。だが、本当は誰も負いたくはない。私は将来的にはこの問題を技術が解決できるのではないかと考えている。両者の負うストレスの落としどころを見つける技術ができれば、それを基準として文化的な問題を解決していく道筋も見えるのではないか。いや、そうなってほしいと願いたい。

 現在世界中で起こっている多くの民族的な摩擦は、確かに経済的な面もあるし、それ以外にも複雑に絡み合っているところもあるだろう。だが、多くの場合には相手の文化を十分知るほどの労力をかけられないことにある。あるいはそれを知ろうともしないこと、意図的・政策的に無h氏して自分を有利にしようとしていることがある。
 韓国や中国と日本のトラブルを見るたびに、お互いの価値観や文化が違うのだから、それを自分の価値観で見て落としどころを付けるのはできるはずもないと感じる。それをもって、日本が悪いとか評論する人の感覚も正直分からない。なるべくバランスを持ってみようと考えているが、私自身日本人としてあるいは今までの経験や形成された性格によるバイアスからは逃げられないのも知っている。

 中国や韓国の常識では、中途半端な融和や妥協と言う概念は日本と異なり常識的なものではない。「勝つか負けるか」しか考えない人たちがいたとして、日本人はどのような対応をすべきなのか。それを知らずに、自分だけの価値観や狭い範囲の常識でものを見ても、答えなどは見えてはこない。
 それほどに、文化の違いや価値観の違いと言うものは難しいものなのかもしれない。だとすれば、世界中に多くの国があるという現実は、実のところ人類として程よい落としどころを見つけ出しているのじゃないかと感じたりもするのである。世界は、統合していくのではなく細分化していく方が望ましい。
 もちろん、これには様々な側面がある。社会を形成するために必要な規模があるし、国際的な力を発揮するために必要な人口規模もある。一方で経済面で言えばもはや世界はほとんど一体と言っても良い側面もあるだろうし、情報に関してもそうである。少なくとも、世界中の多くの人たちがスマホを持ち、情報を発信している。私たちはお金さえあれば世界中の珍品を手に入れることも可能だ。

 経済や流通では統合し、文化では差違を際立たせる。そもそも、オリンピックやワールドカップでは自国の応援に誰もが熱狂している。差違というよりも、アイデンティティは人々に取って必要であり、それはむしろあった方が良い。その前提に立って、アイデンティティを守るための文化交流とは何なのかを考えることが重要となろう。時には、必要以上に交じり合わないことも選択肢となる。文化の距離感を大切にすること。中華街と呼ばれる場所が世界中にあるが、それは一つの在り様を表しているのかもしれない。
 文化を考えるとき、話し合っても分かり合えないことの方がずっと多い。それを知った上で相手のことを尊重し、そして必要な距離を取る。それが文化摩擦に対する最も良い態度ではないだろうか。厳しい態度も必ず必要になるのである。

 あと一つ、人類が停滞するのではなく今後も変わり続けていくためには、実は異文化の衝突によるストレスが非常に大きな役割を担っているかもしれないと考えることもある。閉鎖するのではなく、覚悟を決め、むしろ楽しむ。その意識が広がればいいなと思う。