Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

宗教と国民性

西洋と東洋の国民性の違いだけでなく、東アジアにおいても日本と韓国・中国の国民性は大きく異なる。
なぜ国民性が大きく異なるのかは、その気候・環境・歴史的経緯などによるところも大きいのだろうが、最も大きな影響を与えているのは宗教的な考え方ではないかと感じる。

西洋のようにキリスト教が広く信じられている社会もあれば、イスラム教も同様である。アジアで言えば仏教(ヒンズー教もあるが)がメジャーではあるがそれと並列して儒教の影響も大きい。

日本の場合には、古来の神道信仰に仏教や儒教が混ざり合って独特の宗教観を持つに至っている。ただ、正月は神社に参拝して日本古来の神に祈り、結婚は教会でキリスト教の神に祈り、そして葬儀は仏式で祀る。
その自由奔放さは無宗教と捉えられることも多いが、神道八百万の神に代表されるようなあらゆる神の存在を認める考え方があっての状況であろうと感じている。
もちろん日本には既にまず多くの宗教が存在する。日本国民の全てが神道的な寛容さで宗教を見ているとは言わないが、あくまで俯瞰すればそんなイメージではないかということである。

他方、中国は原則として今でも宗教は認められていない。もちろん、信仰が存在しないわけではないが、それは管理されたものとしてのみ存在が許される。これは、共産主義を一種の宗教として置こうとしているからだろうと思っている。
それ故、キリスト教中国共産党が認めた牧師があてがわれ、法輪功には信じられないような迫害が加えられている。

共産主義は、あくまで社会制度であって宗教ではない。しかし、現実的にはそれを宗教的に扱うことで、過去の中国共産党は力を伸ばしてきたのではないかと思っている。
それは現状においてもかわらず、集団独裁的な政治体制を維持している。

なぜ、これだけの独裁体制が現状においても維持できているのか?この理由は正直簡単に言い表せるものではないだろう。あれだけ巨大な国家を統治しようとすれば、独裁的にはならざるを得ないという話にも頷けるが、それは統治する側の考え方であって独裁制を維持し得る理由ではない。その維持のために、訒小平が部分的に資本主義制度を解放したことで今も存続できているという意見も同様に頷ける。だから、中国にとっては成長の継続が体制維持のために必須の課題なのだ。逆に言えば成長を維持するためには、周辺国の軋轢など気にせずに何でもするとも言える。しかし、これも統治側からの考え方である。
では国民(人民)はなぜ現状を許容するのか?

いろいろと議論はあると思うが、私は儒教的な考え方がまだ生き残っているから何だと考える。儒教は、宗教でもあるがどちらかと言えば一種の統治論である。儒教は学問的には儒学、思想的には礼教とも呼ばれるが、それは現世での徳を納めるための実践であって、同時に上下関係を明確に定める思想でもあった。
その理想を徳治主義において、高い徳を持つ者が天下を治めるという原則論がある。

それは結果的に、徳のある独裁制を許容する(というか目指す)思想である。それ故、韓国でも日本でも統治者にとって都合が良かったということもあり広まった。

これは私の推測でしかないのだが、この儒教的な思想は未だに中国や韓国では人々の生活の中に大きく根付いているのではないだろうか。
この、徳の部分が大きく出ていれば問題ないであろうが、明確な上下関係を優先する思想のみが突出してしまえば、いびつな形で行動に表れることになる。

このいびつさを最も感じるのは、実を言えば儒教発祥の地である中国ではなく韓国においてである。どういう根拠でそれを決めるのかは私には理解できないのだが、韓国では中国を父、日本を弟とする小中華思想として今でも意識の底に息づいている。
だから、中国に侵略された過去は許せても日本に統治された過去は許せないし、日本海という呼称すら気にくわない。
あらゆることで日本を超えなければ我慢できないし、日本からお金や技術を供出させるのはある意味当然と考えている。

だから、日本の番組は未だに地上波の通常放送では禁止されているにも関わらず、日本で反韓流の動きがあれば日本を批判する。自国の閉鎖性を無視して他国の寛容性を批判する態度は、どう考えてもいびつである。彼らからすれば、日本が韓国の教え(文化)を受け入れるのが自然だという無意識の思いがあるのだろうと邪推してしまう。

日本でも儒教は広まった。ただ、それは神道の存在があったためかどうかはわからないのだが、他国を低く見るような流れは中国や韓国ほどは大きくならなかったように思う。もちろんゼロではない。
太平洋戦争は、そこに全く関係ないとは思わない。
しかし、少なくとも敗戦は多少なりとも存在した社会的な傲慢さを打ち砕いたのではないかと思う(個人レベルでは今でもあるだろう)。


西洋のそれは、一神教の影響が非常に大きい。キリスト教以前の宗教もあるので、地域によってかなり異なるのは間違いないが、1000年を超える影響は物事の考え方をかなり縛っていると思う。
もちろん、どれが良くて悪いというものではない。
ただ、絶対的な神の存在は物事を0or1の分類化するのに大きな影響を与えたと感じている。デジタルな思考と言っても良い。それは非常にわかりやすい考え方であり、物事を類型化するのに適していいる。
自然科学が先に発達したのも、絶対的な理論の存在を信じるという考え方があってのものではないだろうか。自然科学の発達はキリスト教の一部の教義を否定したが、それをせしめたのは絶対的な神の存在であったと感じるのだ。

日本のそれは、八百万の神に代表されるように曖昧で混沌である。あらゆるものにあらゆる解が存在する。絶対的な真はあるようでないような、、そんな状況。だから、これが正しいとはなかなか決められない。もちろん、何かをするためには最終的な決断は当然必要である。
しかし、それは絶対的な真理を見つけ出すことではなく、最高の結果を探し出すことにある。概念的には似ているがやはり大きく異なる。

西洋では、絶対的な真理は存在すると信じている。すなわち、Best or Other。日本では、様々な可能性の中から最も良いものを選択しようとする。要するにBetter。
こんな典型的な何かに封じ込めるような議論ではないことは重々承知はしているが、物事の判断に対する態度がこのような流れにより支配されているのではないかとよく思う。

日本人が物事をなかなか決めず、日本社会がコンセンサス社会なのは、こうした宗教観からくる国民性によっているのではないだろうか。輪を重視するのは正解が一つではないと思うからこその展開。

今回のエントリは、私が考える国民性の話である。根拠となる理論も文献もない。それ故おかしな部分も多いと思う。ただ、世界が衝突することが今後増える時期が近づいていると考えると、単純に好き嫌いではなくなぜその国民性があるのかを考えてみるのは重要ではないかと感じた次第である。

「文化の融合は多くの摩擦無しには生じ得ない。しかし摩擦を恐れれば停滞しかあり得ない。国際交流の最大のポイントは、摩擦の大きさをコントロールするという認識の必要性であろう。」