Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

朝日新聞は意図的な反日ではない

百田尚樹氏「朝日は日本人をおとしめる」 九州「正論」懇話会(http://sankei.jp.msn.com/life/news/140920/trd14092021190009-n1.htm

 別にこれまでの朝日新聞の報道内容や姿勢を擁護するつもりは全くないが、個人的には彼らは決して日本を嫌いなわけではないと考えている。もっとも、ネット上での反応を見ると多くの場所で朝日新聞が「売国」や「反日」という意見が定着しつつあるようだ(一例:http://www35.atwiki.jp/kolia/pages/223.html)
 他方、朝日新聞を擁護する行動(http://wam-peace.org/wp/wp-content/uploads/2014/08/2014_0810_wam_youseibun.pdf)もない訳ではないがその面子がいつも通りの(反原発、反政府な)市民活動家たちだというのが、こうした意見の社会的な広がりを阻害している。コアなメンバー(プロ市民的なイメージを持たれている人)が応援しても今の朝日新聞の苦境を助けることはできず、むしろ近寄りがたい存在に祀り上げてしまい早期の信用回復を邪魔するのではないかと感じずにはいられない。

 もっとも、朝日新聞コラム掲載拒否問題で少し前に話題になったジャーナリストの池上彰氏は、全体像としてではなくあくまでコラム掲載拒否問題に限っての話ではあるが、朝日新聞以外の新聞社も方向性はいざ知らず体質的には似たようなものであることを指摘している(http://lite-ra.com/2014/09/post-482.html)。
 要するに、朝日新聞に限らず新聞社は本来非常に適当で扇動的なものであり、これまでが過度に高く評価されていた(もちろん当事者たちもそれを願い続けていた)のがおかしかったのだと言うことになろう。勝手におかしくなったわけでは当然なく、羽織ゴロ(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BD%E7%B9%94#.E7.BE.BD.E7.B9.94.E3.82.B4.E3.83.AD.E3.80.81.E7.BE.BD.E7.B9.94.E3.83.A4.E3.82.AF.E3.82.B6)と呼ばれ一部ではあろうが社会では見下されてきた存在が、戦後の時代背景などを利用して地位を向上させてきたサクセスストーリでもある。
 だからと言う訳ではないが、彼ら自身社会的に高いステイタスを保持したいという強い気持ちがあるように感じている。その自尊心を最も感じるのは朝日新聞であったかもしれない。ただ、そこに見られるのは自らの報道により日本を左右しようという意気込みよりは、報道により自らの地位を高める(オピニオンリーダーであり続ける)ことにある。

 以前から、朝日新聞を始めとする左派の目的や立場は一体何なのかについて考えを少しではあるが書いてきた。彼らは、彼らなりの心情により「日本を良くしよう」と考えているのは間違いない。ただし、目指している理想の日本が多くの国民が考えるそれと同じであるかについては疑問も残る。
 漠然とした言葉ではあるが、理想的な社会が「平和で豊かで誰もが平等に生きられる」ものだとすれば、それに異を唱える国民は決して多くはないだろう。朝日新聞などがそれを目指しているのであれば、その方向性について反対することはないし私もその理想については賛成だ。
 ただ、それを実現するための方法については非常に難しい問題を抱えている。政治が必要なのは、理想に至る道筋が困難でかつ流動的であるからこそなのは言うまでもない。個人の考え方は千差万別であり、理想とする社会の形態を真似ることから始める者もいれば、現実を見据えて理想への遠い道筋を回り道しながら進む者もいる。前者は後者を現状維持者(改革を否定する者)と軽蔑し、後者は前者を夢想家(現実をわきまえない者)と貶める。
 現状の日本における保守とリベラルの言い争いなどは、考えてみれば所詮その程度の違いしかない。もちろん当事者にとってはこの小さな違いが決定的な差異と感じられるのであろうことは容易に想像がつく。それが自らのアイデンティティを構成している根本であるからだ。

 私自身、保守的な思想信条を有していると自認しているが、だからと言って積極的に朝日新聞が倒産すればよいと思う訳ではない。むしろ「朝日新聞的」な考えや存在は日本にとってやはり必要であると思っている。ただしそれが朝日新聞でなければならない訳ではない。
 第二次世界大戦での敗戦を経て、日本国民はその事実を乗り越えるための思想を必要とした。こうした環境の下で朝日新聞などはオピニオンリーダーとしての地位を固めてきた。どちらかと言えば、彼らの立ち位置は反日ではなく反日本政府である。その上で、私から見れば理想主義的すぎるロマンティズムを情操に働きかけるような報道を行ってきた。その理想形そのものを批判するつもりはないが、彼らが進める理想に至る道筋については大いに反対意見を持っている。
 理想は、形から入るのではなく積み重ねにより追い求めるべきだと考えているからだ。

 反日本政府的な立場を取ると、結果的に最近では中国政府や韓国政府と呼応した記事になりがちである。しかし、過去において日本政府と韓国政府が今よりももっと親密であった時期には朝日新聞反韓国的であった(親北朝鮮であった:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AB%8C%E9%9F%93)。さすがに今ではそれを表明できるような環境にはないが、もし仮に韓国政府が日本政府と緊密な関係になれば別の形で反韓国的なスタンスを見せるのではないだろうか(中国の場合には少々違う)。
 現実に反権力を表明しており、一時的には日本が国際的に不利になることも厭わず理想主義を貫く姿勢はある意味において感心していたので、今回の朝日新聞の自白(自爆)は私にとって今一つ理解できない行動であった。おそらくは、中国や韓国の国家的成長に伴う挑発に日本国民が大きく反発し始めたことが主因ではないかと思っている。
 それは、朝日新聞オピニオンリーダーの地位を築き上げてきた土台を根底から崩す状況だったからである。中国や韓国と仲良くすること(そのための謝罪)が必要としてきた自らの姿勢は、仮に中国や韓国が日本に否定的ではあっても日本を挑発などしないということが求められる。だからこそ彼らの利粗王主義はそれなりの説得力を持って迎えられてきた。
 しかし、今多くの日本国民は朝日新聞型の理想主義に失望しつつある。それは、彼らの追い求めてきたオピニオンリーダーたるという地位を根本的に揺るがしている。しかし、過去を正当化しなければならない彼らはその辻褄合わせに懸命なのだ。考えてみれば非常に滑稽な状況に陥っている。
 もちろん彼らが虚報を積み重ねたことについては噴飯やるかたないが、慰安婦問題にしても南京大虐殺にしても全てが朝日新聞のせいだけではない。当時の社会的雰囲気や政府の対応などすべてが合わさって生まれた結果である。

 容易な話ではないが、朝日新聞が見ずから希求するオピニオンリーダーの地位を再び取り戻したいのであれば君子豹変しなければならない。しかし、過去のしがらみを断ち切れない限りにおいてその目論見は実を結ぶことはないであろう。現実的にこうしたしがらみを断ち切れる人はほとんどいない。なぜならそれは自己否定を求めることなのだから。
 ただ、繰り返しになるが別に朝日新聞反日ではない。結果的に反日的な行動と取られるものも散見されるが、それは意図したものではないだけに彼らも対処を探しあぐねている。最も大きな問題は、肥大化してしまったプライドが問題なのである。それを捨て去ることができるのであれば再び社会の信頼を得ることもできるであろうが、今のところ復活のイメージを抱くことはなかなか難しい。