Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

プレゼントと季節

 年末から春にかけてはプレゼントを伴う行事に富んだ季節である。お歳暮に始まり、クリスマス、正月(お年玉)、バレンタインデー、ホワイトデー、そして卒業入学(祝い)とイベントは続く。成人式も、親から子供に着物がプレゼントされるのだと考えれば含めても良いかもしれない。
 これらは基本的に季節の節目(節季)を理由とした行事が多いが、海外から導入したイベントも含めて考えると定着にはなんらかの別の理由があるのかもしれないと感じてしまう。この年末から春先にかけてのイベント集中(特に贈り物をするイベント)は、季節による特性が背後に隠れていると考えられないだろうか。例えば、あくまで私の根拠なき感覚による仮説ではあるが、買い物が難しくなるという冬季の経済を回す上で生み出されたシステムと考えられないだろうか。

 春から秋にかけては祭りがイベントの地位を占める。気候の良い時期には外で世俗の垢を落とすのが一つの習わしと言える。個人的な感想を言えば、何も好き好んで寒い冬に外に出て陽気な祭りを開きたくはない。もっとも、実際には基本的に祭りは神事として始まったものが多く、冬に開催される例も少なからず存在するが春から秋にかけて行う陽気な祭りと比較すると厳かでやや性質の異なるもののようにも感じている。
 祭りにも様々なタイプのものがあることは周知の事実である。現在冬に行われる祭りは鎮魂の意味を込めたものが多い(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%AC%E7%A5%AD%E3%82%8A)とされるようだが、季節や気候により華やかさよりも厳かさを重視するのはある意味で当然かもしれない。

 ところで、現代社会は生活から季節感(地域感も含めて)を徐々に欠落させ続けている。これは受動的または自然発生的に変化した訳ではなく、どちらかと言えば私たちが生活の安定を求めて望んだ結果としての現状がある。季節感が希薄になっているとは言え、野菜や魚介類など食材に関しては季節の影響を受けるため「旬」というキーワードが表すような季節感が一定の価値をもっち得る。ただ、そう言っても今のスーパーなどを見れば世界中から集めてきた食材により似たようなものが年中販売されているケースも珍しくはない。

 また、欲しいものは極寒の中でも宅配業者が送り届けてくれる時代であり、冬でもぬくぬくとした自宅の中で商品の到着を待つとすれば、これまた身体感覚として季節感が多少鈍るのも仕方がないかもしれない。実際には、学校に行ったり会社に向かう過程で寒さや暑さについては感じる機会が間違いなく存在するが、私たちに強制的にそれを感じさせ続ける状況は消え、生活の中のスパイス程度の意味に成り下がりつつある。
 あくまでものは考えようではあるが、季節感が短時間だけ感じ取れる温度や湿度のみになってしまうというのも寂しいという見方もあろう。不快性を含めての季節感をどこまで許容できるかと言う心の余裕の話に帰着するのかもしれない。

 冬以外の時期は、行楽の春・秋やマリンスポーツの夏があり、夏祭りは最も華やかな祭りの代名詞にもなっている。すなわち季節の良い時期には自分への投資というか、旅行、レジャーやグルメなどでお金を使うことも多いのではないか。もちろん冬もスキーやスケート等のレジャーは存在し、一時期には大きなブームも巻き起こしたが(私をスキーに連れてってhttp://www.youtube.com/watch?v=NXW2-5Iiq4o)、必ずしも定番と言えるほどの広がりがあるとは思えない。これらのレジャーは自分を含めた家族などへの支出(投資)であり、無形のプレゼントであるとも言えなくはない。
 そもそも、寒い季節に出歩きたくなくなるのは多くの人が感じることでもあって、冬眠する動物のように可能であるならば身体的な危険に身体を曝したくないという本能が行動を制御しているようにも思う。

 ところで話を本題に戻すが、私たちが何かを購入する時に最もお金を払いやすいのはいつかと考えてみると、個人差はあるものの総じて誰かにプレゼントする時だと気づく。プレゼントは大きくは相手の歓心を得るための行動であるが、それ故に普段自分自身に対する場合よりも多くのお金をつぎ込むことも少なくない。
 一時期「自分へのご褒美」という言葉が用いられたこともあったが、これも自分に対するプレゼントという側面を強く意識させるフレーズである。しかし、逆に言えば自分に対するプレゼントであるという自分自身への言い訳をしなければ許容できない支出であるということを自認していると考えることもできよう。
 一部では、「自分へのご褒美」と言うフレーズが許容できないと思う人もいるだろうが、これは言い訳でもあり一種のモチベーション維持法でもある。ご褒美という言葉の良し悪しは兎も角として、自分自身に多額(もちろん軽いものもある)の商品その他プレゼントする方便として「ご褒美」という別の言葉を利用しているようにも見える。

 ちなみに、プレゼントは最終的に自分自身への見返りを期待したものであるのもまた間違いない。即効性がある手段とは限らないが、恋人同士や恋心を抱く人へに対して自分に関心を向けてもらう(プラスの効果を期待した)重大なチャレンジであるが故に中身の選択には大いに戸惑う。
 あるいは、現在の人間関係を円滑にするための儀礼的な贈り物もまた自らの立場を維持するために行う社会的慣習であって、様々なお礼という意味だけではない言外の意味が込められる場合も少なくない。もっともこの行為が強い意味を持つことは少なく、社会性が強いだけに礼を失しないといった「自分だけが取り残されない」というマイナスを消すための行為となっているケースもある。

 さて、プレゼントは様々なパターンや経緯があったとしても総じて他人の歓心を買うためと言う前提を有するが、いつでも自由に送られるよりは儀式的あるいは形式的な形で特定の日や時期が決まっているものも多い。これは、下心を感じさせにくいという意味では大いに効果があるが、逆に自分に注目を引き付けるという効果が薄れることもある。
 バレンタインという外国の行事を日本風に(商取引として)アレンジした風習も、「本命」とか「義理」とかはたまた「友」とかいろいろな理屈を付けて自己アピールをしたり、あるいは仲間としての結束を確認する作業に用いられている。

 一番最初に触れた、年末より春に集中するプレゼントの機会と言うものはまさにそれであるような気がしている。これは、春から秋への開放的な季節とは別に閉じ込められがちになる陰鬱な冬に行う行為として、まず様々な儀礼的なスタイルを取りながら始まったのではないか。
 夏のように外に出て行動的になるわけではないが、単純に陰鬱で引き籠もりがちになる季節を特定のイベントで盛り上げるという形式が、冬という時期に集まったのではないかと思う。そこに春という誕生や旅立ちをイメージさせる季節が重なりプレゼントを贈る慣習が集中する。

 ただ、中途でも書いたように現代では生活の中では季節性が徐々に薄れていっている。流れとして、その季節だから行おうとしてきた行事が、逆にその行事が(伝統的に)あることで行い季節感を感じるように流れが逆転し始めている気がしている。
 もちろん日本という国が季節を克服している訳でもなく、それに左右されているのは間違いないことではあるが、できることならば行事ではない季節を苦痛を感じることなく味わう日々を送りたいものである。