Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

生きる喜び

 「生きる喜び」といった類の言葉が人生を励ますキーワードとしてメディアで取り上げられることも多い。私の感覚なので確かではないだろうが、おおよそ1年程度の周期でベストセラーになるような新書(あるいは文庫)版が書店の表に飾られている気がしている。そこには、生きていることに対する感謝を謳ったり、あるいは前向きに生きる意味を賛歌の如く力強く語ったりしている。
 確かにポジティブな思考は私たちを明るい気持ちにしてくれる。日々を積極的に生きることができれば、私たちの生活や人生はそうでない時と比べて間違いなく改善されるであろう。能天気に生きたからといって実現できるものでもないが、ポジティブに生きることには相応の障害も発生する。
 ネガティブな思考に囚われるのは、こうした障害を乗り越えられない(あるいは乗り越える困難にすくんでしまう)ことが多いのだろうが、失敗を恐れる心が躊躇を生み出す。

 さて、元来私は楽天的な方なので「死にたい」と思ったことが皆無ではないものの、普段は生きていくことを日々楽しみたいと考えている。無論楽しめる環境は自分自身の力により整えられたわけでは無く、多くの人との関わりや助力により成立しているという事実は決して忘れるつもりはない。
 何もここで私の人性論を声高に叫びたい訳では無い。人に何かを伝えられるほどの経験を誇れるものでもなく、せいぜい「自分の子供たちに80%反面教師(20%は教師?)として何かを伝えることができればいいな」と夢想しているに程度の存在である私の言葉など如何ほどの重みもないだろう。それ以前に、そもそも人は生れてきた環境も育った状況もすべて異なる。無限の選択肢から作り上げられてきた個性には、正確な意味での人生の教科書は存在しない。結局、最終的には自分が生きる道を切り開き決断するのは自分しかいない。
 それでも他者の生き様や社会に向き合う方法論等から何かを学ぶことはできる。だから、多くの人と接してその良いところを糧とし、あるいは忌避すべきことについては戒めようと考えることができる。

 そんな風に心に誓いを立てて、どれだけ強い気持ちで最短距離を走ろうとしても、人間はメンテナンスフリーの機械仕掛けや完璧でバグのないプログラムなんてものではなく、かなり不完全でかつランダムな感情に左右される生き物である。
 自分にとって良いと頭で明確に理解できるものであっても容易に実行できず、またどうあがいても避けられないものであってもできる限り先送りし、いざ直面しなければならない問題が眼前に迫っても目を背けようとする。辛い現実に向き合うストレスを少しでも軽減しようと足掻くものなのだ。
 生きていく上では私たち快適さや心地よさを追い求め、それを獲得するために高い収入を得ようと足掻き、あるいは高い地位に付こうと努力し、よき伴侶を選び温かい家庭を探し求める。時々の自分の状況から考えられる未来のやりがいや潤いを探索し続けるのが人生と言っても良い。

 直近の出来事を想像するか長い先のことを望むかにより人生の選択肢は変わるし、ほとんどの人はその両方を常に考え比較し、ある時は一方を優先しまたある時はその選択に頭を悩ます。
 選択の部分だけを抜き出して考えれば、その道のりはあたかも苦難の連続のように見えてしまうがこれは錯覚に過ぎない。多くの場合決断はおそらく一瞬で可能なものであり、それにも関わらず長い時間逡巡と忌避が心の中で繰り広げられる。はたまたそれを忘却しようと全く異なる何らかの快適さの中に身を沈めようとする。極端な例では、薬物や精神的な逃避にまで及ぶこともあるだろう。

 しかし、実のところ決断してしまえば(腹をくくってしまえれば)心は穏やかにすることが可能である。確かに、決断したつもりでいても何度も同じ問題を反芻してしまう私達にとって容易に達観できるものではないが、さりとて迷い続ける時間が生産的であるかどうかは改めて問うまでもない。
 私たちの生きる喜びは、多くの場合において決断を終えた後の安寧に産み落とされ、あるいは決断するというスリルの中に漂っている。それは決断し遂行するという過程を経たからこそ見いだされる真実ではないかと考える。ランナーズハイやクライマーズハイではないが、チャレンジが難しいほどにそれを乗り越えた時に掴むものは大きくなる。

 逆に言えば、チャレンジに失敗した時には相応の落胆と衝撃が私たちの心に伸し掛かる。これをどのように乗り越えるかも人それぞれだとは思うが、失敗というものが心に与える損害(ダメージ)は本人の感受性や認識により決まる。
 変な話ではあるが、「鈍感力(http://www.amazon.co.jp/%E9%88%8D%E6%84%9F%E5%8A%9B-%E6%B8%A1%E8%BE%BA-%E6%B7%B3%E4%B8%80/dp/408781372X)」という言葉があるようにダメージに鈍感であることができれば、それだけ受けるマイナスやストレスは逸らすことが可能である。こんな手法を軽々使いこなせる人は少ないからこそ、誰もがネガティブな状況になりまたは人生における喜びを追い求めることになるのだが、苦難を忌避するが故にチャレンジにも及び腰になるとすれば、本質的な生きる喜びからも遠ざかってしまう。

 ダメージに対して鈍感になる方法として確立したものがあるとは思わないが、私が試みているのは心をプレーンな状態に保つことである。例えば嫌なことを言われたり失敗に対する叱責を受けた場合に、それに反抗したからと言って自己満足は得られても状況改善には結びつかない。逆にその言葉を受けて萎縮してもさらに状況は悪化する。
 だから、できる限りにおいて第三者的な他人の目で自分を俯瞰すべく努力する。それと同時に、ショックを受けるのは当たり前だと自分の心が受けたダメージについては事実を間違いなく認める。多少なりとも壊れた心の一部がいつ回復するかはわからないが、いつかは回復すると長い目で保護する。
 上記の様なめんどくさい言い回しになって恐縮だが、簡単な言葉で代弁することもできる。要するに「開き直る」のだ。この開き直りで唯一注意している点は、自己正当化しないことである。ダメージを和らげようと考えれば、実は最初に自己正当化を図ろうとしてしまう。それが傷を癒す最大の方法であることは論を待たない。
 しかし、それでは駄目なのだ。できる限り客観的に見て対処する。自分の悪い点も受け入れる。それなしでも心の傷は回復できるかもしれないが、同じ失敗を繰り返してしまうという懸念が解消できない。

 「心頭を滅却すれば火もまた涼し(http://kotowaza-allguide.com/si/shintoumekkyaku.html)」という故事成語があるが、心境的にはこれに近い。自分自身の利己の部分をできる限り小さくしていくこと。それにより、感情が受けるダメージを相対化して自らと切り離すこと。
 そしてその上で、問題点を冷静に分析する。「鈍感力」とは言っても神経を単純に鈍くするという話ではない。自らの感情や認識部分が受けるダメージを如何に軽減するかと言う手法なのだと思う。
 たまたま私は上記のような方法を採っているが、全く異なる方法でも似たような効果を得ることはおそらくできる。例えば、神を信じる心は時には痛みすらも消し去るというし、恋愛にのめり込んだ時にも同じような麻痺が精神に作用する。それを自分なりに利用できる方法を探し出せれば、心が受けるダメージをコントロールできるようになるだろう。

 人生を謳歌したければ、チャレンジにより何かをつかみ取るというポジティブな動き(これを「矛」とする)と、チャレンジに対する反撃(失敗もそうだし、時には妨害もあろう)を受け流す心のバリア(これを「盾」とする)を身につけることが重要である。
 成長の過程で自然に身につけることもあれば、試行錯誤の中で見出すこともあろう。そして、書物や人の言葉で気付くこともある。どちらにしても生きる喜びを見出すためには、「矛」だけではなく「盾」を手に入れることがかなり重要だと思う。意外と「矛」は手に入れやすく、そして強い「盾」を持てなかった故に「矛」を鈍らせてしまうのもまた人生なのだ。
 「盾」など無くとも人生の喜びを感じさせるという甘い言葉もあろうが、本当の意味で手に入れられるかどうかは少々疑問に思うところがある。

<10/5追記>

 この「楯」の部分について現在の社会や教育は何も教えていないに等しい。「矛」を得るための手段や事例は山ほど喧伝し、それを得るべきだと強くけしかけているにも関わらずである。
 もっともそれを教える体制は全くできていないというのが実情で、国民の忍耐と自主的な学習に委ねられている。せめて家庭でそれを教えられる仕組みが機能すればよいのだが。