Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

人生の期待値

 私たちが自分人生を振り返るとき、多くの場合において期待値が現実を大きく上回っている、あるいは上回っていた。そう思うことはないだろうか。

 

- もっとできるはずなのに、もっと評価されてもよいのに。

- なぜ皆はわかってくれないのか。

 

 こうした感覚は自分だけではなく、家族や友人たち、同僚や上司にも向けられる。

 

- なぜ、きちんとできないのか。

- どうしていうことを聞いてくれないのか。

 

 普通の場面で、あるいは第三者として俯瞰すると、こうした考え方は一般的に言って独りよがりであると認識することが可能なものである。だが、一転して自分の問題となると途端に同じ状況を見ても判断力が低下してしまう。確かに、人の個性は様々かつ幅広く、価値観というものは近いようで誰もが異なっている。だから、自分が正しくて他者がおかしいという自己認識が正しいときもあるかもしれない。実際、身近にいるひとの能力や性格が劣っていたり出鱈目である、あるいはパートナーとして不適合(価値観が違いすぎる状況)であったりもしよう。

 だが、それでも多くの場合に私たちは自分が変わるべき状況であっても、自分を評価する人や、あるいは近くで生活・仕事をしている人に変わってほしいと考える。要するに、自分は変わりたくない。自己を否定し、否定されたくないのだ。そう、自分はかわいいのである。

 

 私たちは、事前に当たり前・当然と思うものを手に入れたとしても、それを特段嬉しいとは感じない。感じ方にも個人差はあろうが、自分が期待していたものよりも価値が高かった場合に、大いに喜び感動する。予想外に褒められた場合には嬉しさが増し、当然と思える場面で褒められても感じ取る嬉しさは前者に劣る。褒めて伸ばす教育が悪いわけではないが、褒め方も考えなければ埋没してしまう。要するに期待値を事前に上げてしまうと達成時における喜びが低下してしまうのだ。

 多くの人の人生においても似たようなところがあり、自分の期待値は第三者が見たときに想定される現実的なレベルよりも高いところに設定する。目標として高いレベルを設定することは悪い話ではないが、当然到達するであろうともくろむレベルが高すぎると私たちの意識には不満ばかりが残ってしまう。もちろん高すぎる期待値を置いた時には、多くの人が怖さゆえか「でも、それは難しいのだが」と自分の意識に保険を掛けたりする。それがクッションとなって、達成時の感動を多少かさ上げしてくれたりする。

 

 期待値を下げれば問題ないと考えやすいが、期待値を下げてしまうと今度はチャレンジすること自体を回避するようになる。「この程度でいいやと」、達成の喜びをあきらめてしまうのも一つの形であろう。それは言い方を変えると、高望みをしない地に足がついた生き方と言えるかもしれない。だが、その着地点が相対的に高いレベルなのか、かなり低いレベルなのかにより第三者の評価は変わるだろう。

 世の中には手の届かない高望みを、自覚しつつも捨てられない人もいれば、まだ余裕や潜在能力があるのにチャレンジすることを諦めてしまう人もいる。それぞれに、様々な背景があるため、それの良し悪しを論じることは難しいが、私にはどちらも極端に過ぎるように思う。現実では、高望みした方が良い場面と、地に足をつけた方が良い場面が同時に存在する。どちらか一方に走るのではなく、その両者を使い分けできることが重要だと思う。

 

 その上で人類に期待値については、遠い夢として高いものを抱きながら、そこに至る詳細なステップを常に頭の中で反駁し、ステップごとについては地に足をつけながらも着実に進む。そんな形がよいのではないかと思う。高い望みは私たちのモチベーションを形成し、前に進むためのエネルギーを供給してくれる。だが、それが空回りしてしまうと、燃料のみを食いながらも進まないスリップ状態になってしまう。それは非常にしんどいものである。

 ただ、私が見る限りだけの話かもしれないが、多くの人はその逆を行っているように感じる。将来的な目標は明確ではなく夢として漠然と持っていても、モチベーションに位置付けないような夢で終わてしまい、身近なクリアしていく問題に対して自らの高い望みを託してしまっている。これは反対ではないか。それゆえに、人生における小さな問題にモチベーションを求め、失敗による挫折をし、負の感情を蓄えていく。

 

 私たちは、身近な日々の行動や生活の中(特に他者に対して)にこそ低い期待値を抱き、許容し、寛大な感覚で対応する方が、自分にとって得になる。大きな夢が与えてくれるモチベーションから比べれば、日常の雑事など些細な話ではないか。

 別に人生の期待値などという大仰な言葉を使わなくてもよいが、自分には夢による努力を課し、他者の失敗や意思疎通の難しさには寛大になる。そのために自分自身を変えていく。それができたなら、おそらく人生はすごく楽しいものになるのではないだろうか。少なくとも、私はそう考えて生きてきている。まあ、たまには愚痴もこぼしながらだが。