Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

失敗を認める

 自らの失敗を認めることは常々多くの人にとって容易くできることではない。他人に迷惑をかけず自己完結できる内容であるならともかく数多くの人へ影響を及ぼす場合であったり、その上でタイミングまで逃したことを気づいてしまえば尚更である。決断は自己の立ち位置を決め、その立ち位置は自分の行動やその後の決断を拘束する。失敗を認めることは、大きな場合は自らが得た地位を否定することに繋がると考えがちだ。
 情報が人々の口と記憶のみにしか存在しなかった時代から比べて、現在ではあらゆる処に様々な情報が広がっている。一定の誤りや失敗を認めることの意味と意義をその場に立ち会った者たちは理解するかもしれないが、それ以外の者たちはどこかに書き残された情報などの断片的な事実のみを見て判断する。多くの場合はその断片的な情報では全ての事を知ることはできない。それを知っているからこそ、正確な情報を知って欲しいと考えるだけでも何の前提も無しに自らの非を認めることは難しくなる。
 あるいは、複雑に絡み合う利害関係を先に調整しようと画策する。そこに時間を費やしているうちに失敗を認めず策を弄しているなどのレッテルを貼られてしまう。何よりも先に誤るという行為が容易にできないためである。しかしこうしたことができないが故に、現実には多くの組織やその主たる責任者は信頼を失っている。もちろん、関係者などの内部的な一部の支持は受けるであろう。ただ、それは基本的に組織の自己都合でしかない。

 以前にも触れたこと(http://d.hatena.ne.jp/job_joy/20120318/1331996677)があるが「失敗学」というジャンルhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%B1%E6%95%97%E5%AD%A6)がある。正式な学問分野という訳ではないが、失敗学会(http://www.shippai.org/shippai/html/index.php)という団体も存在し失敗を隠ぺいするのではなく将来のために役立てることを目的として利用することを考えた取り組みである。しかし、多くの場合には失敗を「失敗」と認識すること自体が拒まれる。
 失敗は将来的には役立つかもしれないが、それが露見することで被る被害を最小にしようとすれば、失敗が見つからないことの方が個人や組織にとっては都合が良い。それでもいつかは公になるものであれば隠すことは一時的な先送りでしかない訳だが、失敗処理のさなかにいる時にはその全体像を掴みあぐねてしまう。むしろ、心理的には全体像を正確に掴むことを拒み都合の良い想像で描けた部分を補おうとするだろう。

 失敗学の精神を生かすには、まず最初に失敗の存在を自分自身が認めなければならないのである。とは言え、失敗を認めることは上述したとおり基本的には心理的な苦痛を伴う。肉体的な痛みの感じ方も個人差はあるが、精神面での痛みの個人差は非常に激しい。
 他人から見れば失敗を全く気にしないような厚顔無恥にさえ見える人もいれば、逆にさほど問題とならない小さなミスにさえくよくよと拘り続ける人もいる。私自身、あまり大きな声では言えないが幾度もの失敗を積み重ねてきたが、それはおそらく現在の自分に大きく生かされてると思う。失敗で迷惑をかけた人にはどんなことをしても償いきれるものでは無いかもしれないが、それでも日々は暮れ次のチャレンジは私達を待ってはくれない。
 失敗は、同時に他者からの非難も引き起こす。自分のみの後悔だけならまだ問題は易しいが、場合によっては中傷や叱責など様々な声が耳に届く。私達が精神的に応えるのは自分自身の心の声よりもこうした外部かが漏れ聞こえてくる言葉なのだ。

 こうした状況は自分自身でコントロールできる範疇を超えており、存在を消し去ることは容易にはできない。無視しようとすることも、あるいはじっと耐えることもできるが、私が最も重要視したいのは「失敗を成功で覆い隠す」という思いである。成功したからと言って過去の失敗が消え去る訳ではないが、成功という覆いを得ることで失敗の事実からの心理的なダメージを和らげることができる。
 これは既に成功していなければできないと言うことではなく、失敗を覆すような成功して現状を変えていこうという心の持ちように関わっている。失敗を心の奥底では認めていながらも表面的に取り繕う状況はどうみても後ろ向きの対処の姿勢である。一時的には精神的ショックを和らげるためにそれも必要ではあろうが、いつまでもそれに拘り続けることは得策ではない。
 それよりも失敗は失敗として自己認識し、その上で前向きの気持ちを持つことが重要だと思う。結局、失敗を認めないことで私達は何を守ろうとしているのだろうか。守るべきはプライドなのか、体面なのか、あるいは。。。?
 確かに、失敗を認める過程をどのように行うかという問題もあるから、安易に失敗を認めればそれでOKという話でもない。ただ、失敗を抱え隠しているというネガティブな精神状況から如何に早く立ち直るかを考えるならば、心の持ち様を変えるための方策を考えておくことが重要であろう。