Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

異業種交流会

 「街コン」にしても「就職セミナー」にしても、あるいは「自己啓発セミナー」や「異業種交流会」にしても私達は何か新しい出会いがないかと期待する。その相手は人であったり企業であったり、あるいは新たな知識かも知れない。そこで新たなコラボレーション(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%9C%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3)が生まれることで、自分を取り巻く環境が変化するのではないかと期待する。だが、実のところそれは儚い夢なのだと大部分の人も感じているのではないだろうか。

 コラボレーションは本来は単なる協力を意味するが、言葉としての用いられ方からすれば異分野(あるいは違う特色を持った者同士)の融合というイメージがある。それは恒久的な協力関係に用いられるのではなく、一時的な関係を意味する言葉であることが大きな理由であろう。
 あるいは、お互いが触発されることで新たな何かが生み出されることを企図して用いられる言葉だと言うこともあるかもしれない。まるで触媒が近寄ってきた物質に反応するが如く、新しい何かが生み出されることを想起させるが、現実には触媒はやたらめったら反応している訳ではない。特定の条件下で、結びつきが可能な物質同士の反応を介助しているに過ぎないのだ。

 人間のコラボレーションも、ミュージシャン同士やあるいは漫画家など方向性の異なる意外な組合せが何か新しいものを生み出すことを期待して行われるように、コラボレーションはお互いに発信する何かを有していなければ生じない。そこに参加する人間同士がアルゴンのように不活性(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E6%B4%BB%E6%80%A7%E6%B0%97%E4%BD%93)な存在であれば生まれる反応は何もない。
 多くの人は交わりたいという気持ちが活性化を促すと考えているが、現実にはその気持ちは他者との接触は増やすものの反応は促進しない。多くの場合反応を促進するのは、強い問題意識やそれをサポートする技術力やノウハウである。
 要するに、経験の浅い者同士が新しい反応を引き起こそうと集まったとしても、そう簡単に上手く行くものでは無いということである。もちろん、それが皆無と言うつもりはない。偶然の産物は何処にでも存在し、芸術等に見られるような表現の世界では経験の浅い者同士が繋がっても思わぬような反応が生じることもあるだろう。ただ、この場合は一定の才能が開花したと考える方が妥当だと私は思う。

 では、異業種の交流会に全く意味がないのかと言えばこれも少々違う。世の中に意味がないことがないように、異業種での集まりは触発を受けたり、新たな輪が広がったりと言う展開は見せる。ただ、ほとんどの場合はそこで止まってしまう。知り合いは増えるが、それもしばらくすれば疎遠になり関係性は消えていく。それを繋ぎ止めようとしても、モチベーションが知り合おうと言うことに傾斜していたのであれば、その目的は既に達成されてしまっているのだ。
 そう、医業交流会はコラボレーションを掲げながらも、実際には人脈を広げるということくらいにしか役立たない。これを機にビジネスを広げられる人もいるだろうが、それもおそらくコラボレーションではなく単なる人脈展開の延長線上にとどまる。

 なぜならば、集まる者たちが皆自ら発するものなしに何かを得ようとしているからである。本来のコラボレーションは、発信する者たちが集まり触発し合い新たな発想にたどり着く過程にある。もちろん小さなそれはあるかもしれないが、多くの場合にそれを求めるものほど発信する力が少ない。
 逆に大いなる発信力を持つ者たちは、別に異業種交流会に場を求めなくとも欲しい人材を見出す方法が結構あり、あるいは巡ってくるものなのだ。

 それでも異業種交流会が衰退していくことはないだろう。誰もが、自らが強烈に発信する力を得るまで一人で頑張れるものでもない。人に触発される(雰囲気を味わう)と言う意味でやはり価値を有しているだろうから。
 ただ、できることならばそこに求めるものの意義については考えていた方が良いと思う。