Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

ネット上の人格

少し前の話ではあるが、フェイスブックアメリカのNASDAQ市場に株式上場を果たした。もっとも、この巨額の上場は少々バランスを欠いていると各所から言われた。と言うのも上場時の時価総額がグーグルの倍にもなるのである。一般的な常識で考えればさすがに大きすぎると思わずにはいられなかった。現実、上場後数日で株価は大きく下がることとなる。要するに上場時の株価が過大であったと判断されたのだろう。そもそも最初の株価は担当の証券会社などが決める。それは上場時の手数料を大きく稼ぎたかったという思惑が見えて透ける。加えて、上場に絡んだ不正があったのではないかとの話もちらほらと聞こえてきたりもする。加えて、上場時のシステムエラーも伴って証券業界には様々な話が噴出している。

ところで、私はフェイスブックを用いていないのでそれを語るに十分な知識を有しているわけではない。だからそんな状態で言うのも何だとは思うのだが、基本的にフェースブックの将来がバラ色だとは思っていない。むしろ他の多くのSNSと同じように栄枯盛衰の流れの頂上近くにあると思う。要するに今がピークか、少しばかり先がピークかという感じであろうか。もちろん、今が頂上なのかどうか、あるいは下りはなだらかなのかまでを見通せるほどの見識を私は持ち合わせていない。
ただ、あくまで直感に従い感じる処を書くことを許してもらうとすれば、やはりフェイスブックのピークは既に過ぎつつあるのではないかと思っている。フェイスブックというネット上の媒体が急速に縮小すると言うことではないだろう。ただ、大きな流れの下で徐々に未知の何かに取って代わられると言うことでもある。フェイスブックは巨大SNSのプラットフォームとして君臨し続けるとは思えないのだ。
ほんの数年前まで、日本でもmixiという巨大SNSが大きな力を有していた。リアルを用いられるクローズドなSNSがその一番の特徴であった。ところが規模が大きくなるにつけてクローズド性が緩み、リアルはバーチャルへと変貌していった。バーチャルが強まることが結果的には存在感を希薄にさせたようにも思える。そして、今や買収報道が賑わう存在になってしまった。もちろん買う側ではなく買われる側である。
もっとも、ここで私が言いたいリアルとバーチャルは実名と匿名の差ではない。個体としてのアイデンティティを持っているかどうかである。仮にそれがペンネームであっても、容易に隠しがたいアイデンティティーを確保していれば、それはネット上でのリアルとなり得る。逆に、本名であってもそれ以外の可能性を備えていれば存在は朧気だ。

コンピューターの急速な進歩に加えてインターネットの普及は、世界の姿を大きく変えた。これまでアナログでしか行えなかった多くの部分がデジタルに取って代わられてきた。最も大きなそれは、発信生の拡大であり広告媒体としての役割であろう。それは有償無償に関わらず情報伝達のコストを押し下げたが、同時に情報の価値も相応に低下した。
フェイスブックは、リアルの存在を維持したまま情報の広がりをもたらしたため、情報の価値を実名による責任で確保した。それは表面的な信頼性を獲得するには有効な方法ではあろうが、本来の情報の信頼性は実名により担保されるのではなく実績により担保されるべきものである。
それを象徴するような言葉が、フェイスブックツイッターのことを「バカ発見器」などと揶揄する言葉が広がっているのを見てもよくわかる。実名や、それに近いものであっても情報発信の信頼性や常識性の確保は発信者に依存する。
問題は、個人レベルのそれは(しかも無償のそれは)信頼性を得るに十分な例が必ずしも多くないことであろう。結果的にデジタル媒体を使っていながらも、生き残っていくのはアナログ時代のそれと大きくは変わらなくなっていく。むしろ、無償の膨大な情報に押されて価値のみが下がるだけである。

リアルとバーチャル、あるいは実名と匿名などという分類は非常にわかりやすく二項対立を生みやすい。しかし、現実にはその対立にはそれほど大きな意味など存在せず、比較してどちらが御しやすいか程度の違いしかないと思うのだ。
あくまで私の勝手な想像ではあるが、今後はネット上における信頼性の確立が実名・匿名の枠を超えて評価されるのではないかと思う。実際、フェイスブックでも著名人はペンネームでのページ公開が可能だし、流れとしてはその方向に向かっている。
かつて、セカンドスペースという野望が潰えたのは全てをリアルから切り離しての存在であったことが原因ではないかと思う。私達は生きていく以上リアルに大部分の時間を費やさざるを得ない。だとすればネット上にもう一つのパーソナリティを生み出せる人は相当に限られてしまう。オンラインゲームなどの狭い世界であればそれも可能かも知れないが、自由度を高めれば高めるほど仮想空間の人格は空虚になってしまう。
逆に仮想区間での人格の密度を上げようとすれば、自然な流れとして多くの経験や実勢を有するリアル情報が大きなウエイトを持つようになる。ただ、ネット上に出てくるリアルそのものが信頼性を担保するわけではないから、リアルとバーチャルを融合した人格としてそれがネット社会において信頼性を得ることができるかどうかが最も重要となるであろう。

有名ブロガーはその信頼性を一定以上確保しているからであり、新聞等のメディアが今ひとつ信頼をを勝ち得ないのは存在はリアルかも知れないが会社という組織に隠れて発信者が朧気であることも大きく影響しているのかもしれない。署名記事を書いたから信頼されると言うほどお気楽ではないつもりだが、仮にネット上で批判を受けるとしても署名記事は一定の人格を持つのも事実であろう。
批判されるのは人格性の欠如ではなく、立ち位置の問題が大きい。特に、不偏不党を謳いながら実際には思いっきりバイアスがかかったメディアが多いのだから、それも当然だと思う。

今後もネット上のプラットフォームは、様々な形で母体を替えていくだろう。実名性を押し出したそれが、次にはネット上の人格性を押し出したものに変わって欲しいと思いはするが、それを如何に担保するかはなかなか難しい。

「信頼は、智恵と実行力とそして実績により得ることができる。ネットに最も欠けるのは実績であろうが、それはようやく積み上がりつつあるのかもしれない。」