Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

変化とマンネリ

人は、同じ状態が続くよりはむしろ状況を悪化させてでも変化を望んでしまうことがよくあるように思う。本来、希望する変化はより良い方向のものであるべきところのはずである。そうでなければ変える意味が見いだせない。ところが、現実には頭の中で良くなることなど無いと判る変化であっても飛び込んでしまうことがあるのは、変化そのものに一種の中毒性があるからではないかと思う。あるいは、変化に中毒性があるのではなく変化しないことが私達の心に徐々に毒を注ぎ込むのかも知れない。だから、状況が悪化することは判っていてもその毒を一時的に止めたいという欲求が働いてしまう。

心理と行動を同じ尺度で比較することには意味がないかもしれないが、例えば同じ姿勢をと持ち続けろと言われても、それを成し遂げるのは容易ではない。動かせないことが苦痛となって私達を襲う。仮に肉体的には我慢できる範囲ではあっても、どこか動かしたくて仕方が無くなってしまうものだ。
身体を休めるための睡眠中でさえ、人によっては寝返りを打ちまくる。身体も動かさないことよりは動かすことで安定を保っているのであろう。
ただ、肉体的な生物学的な運動欲求と比較しても精神的なそれはずっと強い。一つには人は強く集中でもしていなければ、脳はその能力を持て余してしまうのだろう。十分なリラックス状態であっても身体を固定させることは難しいし、それ以上に精神を一つの興味に留めておくことは困難である。
それを無理矢理固定化させようとすると、脳は大きなストレスを受けてしまうのである。そのストレスに対する過激な反応が、現状を変えるためには悪い方向の変化でさえ受け入れてしまうと言うものなのだろうと思う。

さて、肉体面については条件反射部分と心理に左右される部分があるのはなんとなくわかる。しかし、心理的な部分も短期的(条件反射的)反応と長期的(熟考的)反応があるような気がしている。ストレスという先ほど示した例が短期的な反応だとすれば、長期的な反応とはどう言うものであろうか。
これは、心理的な畏れというものではないかと考えている。
例えば、人は選択肢がそれしかないと言う状態に陥ることを非常に恐れている。特に、本当は先があるにも関わらずそれでも一つの到達点がその先を見えなくするのではないかということを恐れてしまう。
これは、見える(想像できる)範囲が経験の差により異なることを意味している。観念的な分類で申し訳ないが、私達は何かを達成する前と達成した後では見えるものや面が違う。しかし、達成する前にはその時点のレベルでしかものを見る(想像する)ことが出来ず、達成後の可能性には気づかない。だから、達成後の閉塞感を想像して躊躇してしまう。

人は、早くより高いレベルに立ちたいと考えて努力する。その時に目指す立ち位置は一時的なゴールでもある。現実にはそのゴールが新たなスタートでもあるのだが、それがスタートだと気づくことができるのはゴールした後(もしくはゴール直前)くらいでしかない。
そして、ゴールすることの難しさ(レベルアップの困難さ)を実感するとそのゴールするという目的自体を無意味なものと考えようとしてしまう。先ほども書いたように、一時的な目標は現実における次のステップに移るための前提条件でしかなく、それを捨て去ると言うことは自らにとって通常考えればプラスになる可能性は低い。もちろん、また別の道を探すということが可能であるのも間違いないが、そこにおいてもこれまでと同じかそれ以上の困難さが待ち受けているであろう。

ゴールに至る道筋が見えなくなったとき、それを大きく壊すことが一つの方法ではないかと勘違いしてしまうような状況。それが長期的な反応ではないかと思う。これも結果的には心理的ストレスの積み重ねに過ぎないのかもしれないが、私達はそれを閉塞感などと呼ぶことが多い。

「私達が「変わる」ことを基本的に好ましいことだと考えてしまうのは、心理的な停滞に対する精神的な弱さがあるからなのかもしれない。」