Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

卑下と称賛から見る内弁慶

 少々旧聞になってしまうのだが許してほしい。

インテルのDFフアンが長友を絶賛「ユウトは素晴らしい人間」(http://topics.jp.msn.com/sports/football/article.aspx?articleid=4012831
マー君の日米報道ギャップから、メディアの役割を考える(http://bylines.news.yahoo.co.jp/suzukitomoya/20140411-00034403/

 毎回、難癖のようにこじつけているなと我ながら感じているわけではあるが、どんな気づきにも全くの無駄は存在しないとの信念に基づき書き続けていこう。
 日本メディアは、基本的に世界の評判を非常に気にしている。これはメディアに関わらず、日本人全体の問題と言える。私自身世界の状況を熟知していると言うにはほど遠いことを自認しているが、些細なことをあたかも大問題のように書き散らす(しかも人の言葉を借りて煽り立てる)メディアの内弁慶さには飽き飽きしてもいる。
 売れる(情報を見てもらう)ことを何より重要視しているメディアであるが故に、記事や内容の正当性やバランスより興味を惹くことに重きを置いているのは多くの人も気づいている。もちろんメディアの質の違いによりバランス感維持への腐心に差は存在するが、だからといって完璧な公平さを保てているメディアはどこにもない(現実に不可能であろう)。ただ私たちは、メディアにそれを期待しえないことは十分理解しながらも、少し気を緩めると報道に流されてしまっているのもまた事実である。

 上記事例に見えるメディアの報道では、日本人による日本の評価よりも逆輸入の評価のほうが優れているという序列化が見事なまでになされている。特に、日本人選手の活躍を日本人の自賛ではなく海外の意見に重きを置いているという傾向が高い。もちろん日本人が日本人に為す評価は、耳触りの良い我田引水的なものも少なくはない。欧米の評価をありがたがって承る姿は昔からの光景だし、この状況は日本に限定されたことでもない。
 ただ、世界でも日本でも各々に立派な分析は存在し、その逆で下らぬ内容も同じように多い。単純に言えば是々非々で対処すれば良いだけなのだが、そこにメディアフィルターが加わると偏向(というか定性的な序列化)が差し添えられる。これはメディアの思い込みと言う面もあろうが、それ以前にメディアには本物を見抜く力がないということがあると思う。もっとも、最初に取り上げたようなスポーツに関するものならば、多少の偏向があったとしても飲み屋のネタ程度のものでもある。問題はこうした余所の力を借りてくる事に対する恥ずかしさをメディアが失っていることであろうか。

 新聞などの社会情報発信メディアが力を失いつつある一番の原因は、各種専門家が様々なインターネットツールを用いて発信を始めたことがある。メディアの良いところは社会に隠れた問題を最初に発掘し、関連する意見や情報を素早くそして塩梅よく問題点に絡めていくことである。専門家は分析等に時間がかかり、発信ツールを持たない折には書籍や論文で発表するしかなかった。
 メディアはそのタイムラグを利用して自らの価値を高めてきたと言える。海外言論や報道を優先するのも考えてみればこれと同じ論理ではないだろうか。翻訳の手間と難しさ(あるいは海外メディアの検索に係る労力)が国内と比べれば大きいことを利用して、その情報を権威づけることで自らの価値を高めようとしている。その上で国民も海外の情報の方に重きを置くことも少なくない。もっとも、それは海外のメディアの発する情報の方が信用に値するという考えても見れば馬鹿らしい状況でもあるのだが。

 海外のファッションやビジネスを持ち込むことはそもそも職業として成立する行為であるし、メディアが強く意識して権威付けを狙っているわけではないだろう。ただ、一度情報を握ってしまえば自ら保有する情報ソースの価値を高めるためには、自然と誰もが触れ得るニュースソースの価値を低いものとし、若干希少価値の手持ち情報を持ち上げていく。もちろんこれも通常の商売であれば、一つの戦略ですらあると思う。ただし、同じ行為はメディアにとっては諸刃の剣になりかねない。自ら発する情報の信用性を売り物にしながら、その根拠を他者(しかも本来的にはライバルでもあるべき海外メディア)の信頼性に大きく寄りかかる状況は自らの首を絞めていると言っても良い。
 テレビの凋落が普通に語られるようになって既に久しいが、テレビで週刊誌や新聞の切り抜きを報道し、あるいはネット上にある動画を流すこの状況は、発信者としての根幹を揺るがしかねない状況ではあるが、未だ有効な手を打ち出せていない。

 こんな状況で、ネットの情報は信頼ならずテレビや新聞の方が信頼に足りると説いてもどれだけの説得力を有するのだろうか。ネットにはまだまだ大きな問題点があるのは十分承知している。しかし、そもそもテレビの黎明期も同じ様な状況にあったのではないか。いや、新聞ですら「羽織ゴロ」などと呼ばれてきた社会的に底辺と見られた時代をくぐり抜けてきたからこそ、少し前まで持っていた権威を得たのではないか。
 海外の声を必死に拾い権力を叩くメディアは、それを利用せずに国民を味方に付ける努力をもっとすべきではないかと思う。それができないのは、無意識の選民思想がまとわりついているのだと私は思う。そして、その匂いは確実に多くの国民にも嗅ぎつけられている。

 それでもおそらく一部メディアは方向性を変えることができない。むしろ炎上商法とでも言えそうな行動を繰り返し始めるであろう。それを笑えるものにとっては良いネタとなるだろうが、多くの気にも掛けない国民からすればいい迷惑とも言える。もちろん、一部の極端な意見を関連するメディアに報じさせて自らがバランスを取った火消しを行うといったマッチポンプも多用されるであろう。
 それも許容するのが自由を保証された国家であるが、ただやはり少々面倒くさい。メディアリテラシーを身につけるのが重要なのは間違いないが、私たちは貴重な自分の時間の多くをくだらない真偽判別に費やすというのもまた時間の無駄遣いなのだから。

 内弁慶という言葉は、外には温和しく内部に対して強気で出ることを言うが、日本のメディアは右も左も総じてこの言葉が愛相応しい。メディアに自浄作用を期待するのは不可能なのだと言う当たり前のことを、今日も考えさせられている。