Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

義務取材

 かなり遅くなってしまいましたが、熊本地震の被害に遭われた皆様が少しでも早く平穏を取り戻されることをお祈りします。

 さて熊本地震の政府や自衛隊の対応だが、阪神淡路大震災の頃と比べると随分スマートかつ迅速になったものだと感じている。もちろん緊急時であり、不足している問題などは多々あるだろう。東日本大震災の時も、餓死が生じるのではないかということが問題とされたが、それと比べても随分システマチックに災害対応ができるようになったと思う。とは言え、まだまだ不足もあろう。今後もより良い体制づくりに取り組んでもらいたい。
 ちなみに、避難所として利用できた施設の状況を見ていると、熊本県などの耐震補強等の震災対策がどの程度十分だったかについては少々気になる点もある。日本において地震から逃れ得る場所は、実際のところそれほど多くはない。過去の地震が少ないからと言って安全だとは言えないことが、今後議論されていくことになるだろう。

 一方で、メディア取材については阪神淡路大震災の時と比べても、私が感じる限りにおいてではあるが進歩しているとはとても思えない。救援がスムーズになっている分、その劣化が目につきやすくなっているという点もあろう。既に、ガソリン給油の件や、状況をわきまえない取材など、いくつもの問題点がネットを中心に提起されている(http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1879715.htmlhttp://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1604/18/news077.html)。
 入手した弁当をSNSにUPしたことで叩かれている記者もあり、その件については擁護・批判の議論が行われている。私の考えは、弁当を受け取ったこと自体はルールを逸脱していないのであれば必ずしも悪いとは思わない。ただ、それをSNSに気軽に上げるという点については軽率だと思う。自らの行動がどのように見えるかについての細やかな配慮に欠けた行為だと思う。それは十分に被災者の目線になっていないという意味で。
 もちろん、同じことをしても叩かれないケースもあるだろう。ただ常に世間で言われているのは、本当にその取材は必要なのだろうかという疑問である。それを払拭するだけの成果を上げているのであれば、弁当の件など些細な問題として扱っても良いと考えることもできる。本当にそれだけの取材陣は必要なのか。そして、取材は何を伝えるのか。取材そのものが目的とはなっていないのか。疑問点は数多く存在する。

 確定された情報が非常に少ない時点で、未知の情報を社会に伝達するという報道の意義を私は認める。だから、地震発生時点で、政府や自治体の手が回らない状況を伝達するという行為は認められるだろう。だが、ある程度被害情報が認識された段階で、それを追認するような報道にどれほどの価値があるかについては疑問を持っている。ゼロとは言わないが、報道する理由は一義的に被災者の抱えている問題点を早期に解消するため(そのために、政府や自治体にプレッシャーを与えるというのもある)であり、そしてこの教訓を次に生かす為国全体に認識を広げることである。
 要するに、報道は取材することが目的ではなくその結果得られるものが目的なのだ。ネットを中心に批判されているのは、結局のところ取材自体が目的化していることが全てではないか。

 危険を顧みずに、震災直後の各地の状況を社会に伝達すること、あるいは忘れ去られたり取り残されている地域や、困っている人を見つけ出して教えること。そこには大いに賛同する。震災直後は、状況確認に手間取るのは当然だし、自治体職員の数は不足し情報伝達は混乱するのは常である。そこに確度の高い情報が入れば大いに役立つだろう。
 もちろん、被災者に迷惑をかけることなしにであるのは前提だ。

 ところが今の報道を見ていると、ある程度落ち着いた時期に取り立て需要でもない場所で、重箱の隅をつつくような報道、あるいは宣伝の様な活動をしているのが目につくのである。他者も報道しているから自分たちも報道しなければならない。あるいは、震災報道の時間枠を得ているから何かを無理矢理用意してでも番組を作る。
 露骨にそれを言う訳ではないだろうが、概ね下心は透けて見える。それが批判の起点として存在していると思うのだ。取材そのものを否定するつもりはない。だが、その取材は義務としての取材ではないか。誰のための取材なのか。建前上は被災者のためというだろうが、それは本当なのか。その取材は被災者のために役立つのか?

 確かに、ネット上における信じられないような叩きがあるのは承知している。私も常々思うが、もっとも良い支援は義捐金だと思う。パフォーマンスであろうが何であろうが、実際にお金を現地に送ることには大いに意味があるだろう。本当に水や食料を必要とするのは、災害直後の数日でその後状況は逐次改善していく。お金さえあれば、必要なものを手に入れられる状況が出てくる。そして、復旧から復興へと大きく舵を切っていくが、その時にもお金は大いなる支援となる。
 それ故に、「不謹慎狩り(http://blog.livedoor.jp/hasegawa_yutaka/archives/47384200.html)」などという憂さ晴らしには、私も大いに批判したい。義捐金を送ったこと(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160421-00000001-tospoweb-ent)をパフォーマンスとして批判されるのは、やはり変だと思うのだ。確かに様々な支援物資も必要とされる時期はあり、適切な時期に適切な形で送られれば大いに役立つ。しかし、お金は最も汎用的に時期を選ばずに使用できる(被災直後を除く)。
 空気が読めていないという批判はあったとしても、それで今露骨に叩くという必然性はどこにもない。単なる憂さ晴らしに利用されたと言われてもおかしくないだろう。助け合わなければならない時期に行う行為だとは思えないのだ。

 ただ、このようなネット上の行き過ぎの問題点があったとしても、メディアの報道姿勢が阪神淡路の時から大して向上してない弁解にはなり得ない。縁の騒音の問題も、被災者の心情を考えないインタビューも、あるいは誰のために報道しhているかわからない状況も、大部分は変わっていないように思う。して言えば、ボランティアに言われてきた自分の食料は自分で持ち込むこと。少しでしかないだろうが、多少は考慮されているのだと思う。
 一部だとは信じたいが、メディアは比較的安全なところから他人(ほとんどの場合政府や自治体、あるいは自衛隊)を批判するというポジションを考え直した方がいいのではないか。原状行われている報道の一部は、あたかも報道の形をしたアジテーションhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%87%E5%8B%95)になっているのだから。