Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

害虫

虫にも益虫と害虫があるが、それは人間側から見て都合がよいか悪いかで判断される。その上で社会に反するような人のことを害虫と呼んだり、その代名詞として語られるような「ダニ」や「寄生虫」などの言葉が用いられる。
しかし、地球環境全体で見たならば害虫と呼ばれる虫たちも役立っているのは間違いない。地球環境の一部である人間には都合が悪いが、全体環境を維持する上では必要なのである。もっとも、それは一定のバランスを維持した状態においての話でもある。仮に害虫と呼ばれる存在のみが肥大化し始めたとすれば、やはり環境の微妙なバランスを崩すのは間違いないし、人間にとっては耐えられないような厄災にもなるだろう。
そもそも、害虫とはそれを害とみなす者がいるからこその定義付けであり、要するに誰かにとって都合が悪い存在であると言うだけだ。都合が良ければ益虫で、都合が悪ければ害虫という分類がされるのは、その分類をされる側からすれば迷惑きわまりないと言ったところであろうか。

よくある話としては、害虫に狙いを定めて駆除したところその害虫に抑え込まれていた別の虫が別の被害を及ぼし始めたケースなどもわざわざ個別の事例を挙げるまでもなく存在する。結局は世の中の環境は微妙なバランスにより成立しており、そのバランスを急に乱すことは全体の系を狂わせることにもなりかねない。害虫とは、自然環境を構成する一要員にとって都合がよいかどうかを示す指標であるが、それは結局のところ自然の調和を崩す要因だとも言えるであろう。
もちろん、細心の注意を払いながら徐々にバランスを変化させていくと言うことは不可能ではないかもしれない。ただ、それを実現するためには長い時間が必ず必要となる。それをコンビニエンスに成し遂げることは特異なケースを除いて非常に困難である。

さて、人間社会においても害をなす存在はいろいろとあり常々社会問題となる。暴力団などはその典型であろうが、それ以外にも害をなすというカテゴリーに分類される人はいるだろう。政治家などでも「売国奴」などと呼ばれながらも活動を続けている人もいる。こうした存在は一面で見れば不必要ではあるが、「必要悪」という言葉もあるように根絶すれば良いというわけでもない。基本的には大多数の人々にとって迷惑な存在が社会的な害虫と定義されるのだが、それも自然環境の場合と同じで一定の価値観の下での善し悪しに過ぎない。ただ、それでも私達は最終的には人間環境の最適化を目指すことになる。
世の中に存在する感性や考え方は千差万別であって、それを社会から完全に根絶することなどは実質的に不可能であると共に、社会全体の柔軟性を失わせることにも繋がってしまう。重要なことは、害をなすと考える存在がなるべく悪影響を与えないように増殖を抑えるための管理をすることである。
その上で、急ぎすぎずに替えていく努力を怠らないことであると思う。

ちなみに害虫と呼ばれる存在であると言うことは、同時に少数派であると言うことをも意味している。多数派であればそれはもはや害虫ではなく、社会や国民を圧迫する権力であろう。こうなった時には、悪くても社会に必要な存在とはもはや言えそうにない。こうした存在は、強大な武力や権力などを持ち続けなければいつしか消えていく存在ではあるが、それでも迷惑きわまりないものであることに変わりはないだろう。
益虫のメリットは、科学技術の進歩にも似ている。より効果の高い技術を用いることは、局部的には成長や発展を私達に与えるが、おそらくその時同時に別の見えないリスクを振りまいている。技術進歩の重要性は重要だが、その面のみに囚われてはいけないという教訓を私達は害虫徹底的な駆除による失敗から学ばなければならないかもしれない。

「不要なものにも自然が生かす以上気づかない価値がある。そのことを無視してはいけない。」