Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

創作とは

社会におけるあらゆる創作活動をまとめて話をすることが本当に可能かどうかはよくわからない。
にもかかわらず、それに触れるというのはちょっと虫が良すぎると言われれば全くその通り。
だから、こんな考えもあると思って聞き流してもらえると嬉しい。

世の中には、本当にいろいろな創作物が存在する。
映画、ドラマ、演劇、音楽、絵画、文芸、陶芸、彫刻、ゲームデザインポップアート、、、、
挙げればキリがないだろう。
これらの創作物に共通する特徴とは何だろう。
共通項についても多様な意見があると思う。
しかし、私が一番最初に思いつく共通項が一つある。それは、人々の生存に必須のものではないことだ。
人々がようやく集落を作り始めた時代から、宗教的な意味合いを持つものとして芸術は存在した。踊りや歌は、当時の人たちにとっては神聖かつ生きていくために必須のものと考えられていたかもしれない。
ただ、現在の私達はその必要性は認めながらも、生きることのみを考えれば必須要素ではないことを知っている。

では、それにも関わらず世界にこれだけの創作物が溢れている理由は何だろう。
これも明らかだと思う。
生存には必須でなくとも、生きていく上では欠くことのできないものだからである。
生きていくためには、精神の安定が求められる。安らぎを感じ、夢を求め、活動の理由を探す。
創作物は、そのための触媒として作用する存在なのだ。

創作物は、私達に非日常を感じさせる。
非日常を感じ取ることで、私達はそれを何かの転機として活用する。
気分転換として用いることもあれば、ひらめきの材料とすることもある。
思考や発想のきっかけとして用いることもあれば、感動により心を揺り動かすために活用することもある。
どのように利用するにしても、それは定常的で変化のない日常、ストレスが多くて逃げ出したい日常、そこに何らかの刺激を加えるために用いているのである。
もちろん、創作物の種類によって用いられ方も、用いるレベルも異なる。
音楽のように日常的に接するそれもあれば、絵画や彫刻のように普段接するとは限らないものもある。
また、創作物は人を選び、同時に人も創作物を選ぶ。フィットしなければ、創作物は人に刺激を与えない。

創作物は、本来それそのものが人に大きな刺激を与えるものではない。
彫刻であれば、その意味を知らなければ単なる路傍の石とどの程度の差があろうか。
意識の外に置かれてしまえば、存在すら認知されないかもしれないものである。
創造物は、人々の知識や知性に働きかけて想像力を喚起しなければ役に立たないのである。
先ほども触れたが、創造物と人の適性はその想像力を喚起させるかどうかにかかっている。
そして、社会に認められる創造物とはより多くの人の想像力を喚起させるものである。

もちろん、一部の人々により深い感銘を与えるものもあるだろう。
逆に、広く浅く刺激を喚起するものもある。
どちらが芸術的かの論争はいろいろな場所で議論される。
私は、その議論の行方に然したる興味があるわけではないが、個人的な意見としては「深さ×数×時間」により得られる結果が創造物の価値の高さを表すと思っている。
すなわち、特定の評論家のみが激賞してもすぐに忘れられるものは結果的に価値が低い。

創作物が人々に非日常を想起させるものであるとすれば、創作物の完成度はそれが想像させる非日常世界の完成度に比例する。創作物はあくまで非日常世界の一部分を切り取ったものであるが、その非日常世界は創作物の作者(若しくは演者)が深みとリアリティを与えていく。それは他の作品を通じてであったり、あるいは作者そのものの生活や言動を通じてである。すなわち、作者は創作物が醸し出す非日常環境の一部なのだと思う。

一時期、市川海老蔵が問題を起こしたことが報道で繰り返し流された時期がある。最近のことなので覚えている人も多いだろう。私個人としては、事件自体には全く興味がないので特に感想を抱きはしなかったが、芸能という創作の場所にいる者が現実の縛りに囚われてしまっていることについては、正直言って可哀想だと感じていた。
もちろん、創作者とはいえども社会生活を送る人間でもあるのだから、社会のルールを守るのは当然の責務である。しかし、ルールに縛られると言うことは創作の枠を狭めることでもある。それが社会から過度のペナルティを与えられるとケースが多発するとすれば、それは創作の可能性を狭めてしまう枷となるのではないかと危惧を抱く。

創作の自由があると言うことは、それだけ社会に余裕がある結果でもある。
それが制限を大きく受けるような時代が来るとすれば、豊かなように見えて貧しい時代が来ているという証拠かもしれない。

「無駄が価値を持つ時代が豊かな時代と言えるのではないだろうか。」