Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

ユビキタスの広がりが発信者を減らす

スマートフォンの近頃の普及はめざましい。
ちなみに、私は今のところスマートフォンを持つ予定はない。
ガラケーですらwebはほとんど使わないのだから、言わずもがなである。

それでも、かつて坂村健教授が提唱したユビキタス社会の一端が実現し始めたと思えば感慨深いものがある。
ユビキタス、、、いつでもどこでもアクセスできる社会。
もちろんまだまだ不十分だ。
スマートフォンが単なるネット接続端末でしかないのなら、それは理想にはほど遠い。
ただ、その普及のために進められる設備投資は将来的な発展をサポートするだろう。

さて、ではそんな社会が望ましいかと言えばこれはまた別である。
ネットには情報が溢れている。
しかし、情報が氾濫すればするほど、その情報は薄っぺらいものになっている気がしている。
それは、情報発信者が容易に情報を出せるようになったからという面と、逆に大量の薄い情報を得ようとする人が増えたこともあるだろう。発信者側の問題と受信者側の問題である。
発信者側からすれば、「速報性を重視する」すなわち少しでも早く情報を流そうとすれば当然情報が希薄になりやすい。中身よりはインパクトなのだ。見出し主義と言っても良い。多少の文章が付くかもしれないがあくまでその文章は飾りである。言いたいことや内容のある部分はそれほど多くない。
但し、情報発信頻度は上昇する。
同時に受信者側も、コンビニエンスな情報を手に入れたがる。それは、情報分析にかける手間をなるべく省きたいという欲求に基づいている。あるいは、複雑な問題や難解な文章・内容には触れたくないという人もいるであろう。
ただ、昔よりは信じられないほど多くの人が様々なメディアが発する情報に接している。自然、情報の扱いを重要視しない人が増える。また、仮に情報の扱いに注意を払っていてもこれだけ情報過多の時代である。その取捨選択を処理しきれないことも十分に考えられる。結果として、浅く広い情報の収集になりがちである。

私は受信側の問題についてはあまり深刻には考えていない。それよりは発信者側の意識の問題には気になる点が数多くある。私も人のことが言えないのだが、発信する内容が徐々にコンビニエンスになっていくことではないかと感じている。
書籍等の発表のみであれば、相当に推敲された状況での情報発信が行われる。すなわち量よりは質である。
もちろん発信が容易になったからと言って質を落とさなければならない道理もないが、情報を受け取る側が質よりも情報を浴び続けることを望み始めれば発信側もそれに染まりやすい。望まれるものを発信することになる。

大量の情報は知識としては重要かもしれない。しかし、それは知識のままであっては意味がない。
世の中ではクラウドコンピューティングが謳われ集合知の意義も説かれるが、集合知は知識の共有や情報分析には大きな力を発揮する。それは、2ちゃんねんるなどの巨大掲示板の動きを見ていれば理解できる。何か事件があれば玉石混交ながら情報分析に大きな威力を発揮する。
しかし、同時にその暴走の危険性も併せ持っている。有効なストッパーが存在しないからだ。

情報化社会になって、大量の情報を分析・評価する力は社会全体としては伸びていると感じる。
問題は、情報を発信する側がその分析力などに甘えてしまって十分にこなれていない情報を大量に発信するのが常態化していることではないかと思う。
それは、発信する潜在力を有する者たちが、練度の高い情報を発信するよりは容易な情報の商社化に走っていることがある。これは、情報発信の世界だけではないのだが、大手企業が実質商社化しているのである。TV自体番組も下請け企業に実質丸投げ。その上で安い金額で製作させる。要するに、ピンハネのための安易な製作現場になっていると言うことである。
商社化するのは効率化のためにある程度はやむを得ないだろうが、完全な丸投げになってしまえばもはや情報発信者としての矜恃がどのくらい残っていると言えるのであろう。
近年のテレビ離れについて言えば、質的な劣化が理由の一つだと私は思う(もちろん、TV以上に有効なネットというツールが存在感を増していることも大きな理由ではある)。

一方で、インターネットに質が期待できるかと言えば、これもなかなか難しいのが現状である。
基本的に薄い大量の情報=量で満足して質に転換できない。
例を挙げて考えると、量は知識、質は知恵と言っても良い。
量が増えたからと言って質が向上するとは限らないのである。

そして、それを利用する私達はそのことに気づいている。
ただ、大量に情報を浴びることにより考える時間を減らして、それを理由に考えない言い訳にしている。
それでは、情報アクセスが容易になったこの時代を有効に活用できていないと思う。
別に電車の中で無理に情報アクセスする必要性など高くないのだから。。。

「情報は活用するものであって、主体は人に無ければならない。情報に流されるのを言い訳にするのは、人の主体性を失わせる行為であろう。」