Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

リテラシーもどき

 馬耳東風(http://gogen-allguide.com/ha/bajitoufuu.html)はどちらかと言えばネガティブなイメージで用いられることが多いようにも思うが、現代社会において多くの人はむしろその能力を鍛えることに腐心すべきではないかとすら感じるこの頃である。世間ではしきりにリテラシー(特に情報に対する)が必要だと、世の中に氾濫する情報を個人が適切に認識し自己判断するのが当然だとばかりに喧伝される。確かに情報を正しく読み取る能力は非常に重要だと私も思う。しかし、こうした能力は多くの情報に触れることで得られるという訳ではない。むしろ常識的な判断を積み重ねることにより得ていくものだと言える。
 確かに、仕事の上達には数をこなすという方法論があるのも事実でだが、これも数をこなすのは仕事の意味を理解しより改善するためではなく、むしろ如何に仕事に慣れて作業速度を速めるかという面の方が強い。情報に多く接することも、初期には知識を得ることで情報に対する分析力が増しはするが、その後は情報のさばき方が上達するのであって情報を適切に把握して処理する能力が向上する訳ではない。
 別の言い方をするならば、リテラシーを高めるためには捨てるべき情報(あるいは必要な情報と不必要な情報のトリアージ)を如何に早く判断するかという連取を繰り返すことが重要となる。そのためには、現在よりも情報を受け入れる許容力を下げるのも一つの方法だと思う。

 社会においてはより多くの情報を受け入れることができるのも一つの能力だとは思うが、それが過多になれば情報を適切に処理できなくなることは多くの人も感じているだろう。一種の情報酔いとも言える状況は、情報に対する酩酊と共に情報に対する依存をも高めてしまう。一部ではスマホなどの情報の並に踊らされている姿を警告する向きもあるが、実態としては何も変わらず多くの人は電車の中で、あるいは街中で直に社会を見るのではなく携帯というツールを通して接しようとしている。
 リテラシーを向上すべきという言葉は、建前上は非常に正しい指摘だと私も思う。ただ、人間は完璧ではなく同時に限られた能力しか持たない。私たちは全てのことを完璧にこなすのではなく、できる範囲のことを確実に処理していく必要がある。
 多くの無意味な情報から拾い出すのではなく、多くの人との会話や議論の中から自分が信じられる確かさを掴み取ればよい。むしろ、自分として自信がないのであればより信頼できる人に素直に相談すればよい。リテラシー能力はその全てを自分が保持しなければならないという決まりはない。また、自分で情報の渦の中から掴み取らなければならないものでもない。

 逆にそう感じているのだとすれば、むしろ情報を発信しし操作する者達の術中にまんまと嵌り飼い慣らされていると考えた方が良いかも知れない。情報を操作しようとする者達は、情報の洪水の中でより大きな声のものに押し流されてくれるのが最も都合がよい。情報の量ではなく質で評価されるようになるほどに困るものである。
 リテラシー能力は一人で努力して身につけるべきものでは無く、より質の高い多くの声に触れることで見つけ出すものだと思うのだ。その声はネット(あるいはメディア)の中よりもむしろ現実の世界の方が質が高かったりもする。もちろんネットの中には質の高いサイトも少なくないが、初めての人がそこにたどり着くまでにどれだけの紆余曲折を経るだろうか。

 私達はリテラシーの身につけ方を知らぬままに、それを発揮することを無言の圧力で要求されている。ネットの世界であろうがリアルであろうが、自分が責任を持てる範囲をきちんとカバーしてそれ以外は信頼できる他者を頼ればそれでよい。そして、重要なのは信頼できる他者を見付けられる人脈や人間関係の方が重要なのだ。
 無理して自分の力のみで(もちろんネットの雑多な情報に浴しながら)確からしい事実にたどり着こうとしてもそれを確認する術もなく、時には情報の洪水により情報を操作しようとする者達の掌の上をまんまと踊ってしまうのだろう。このような状況をリテラシーもどきといっても良いかもしれない。