Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

ゾンビ教授が大学を亡ぼす

 日本の大学ランキングが低迷していると言われて久しい。日本でも多くの大学が、ここにきてランキングアップを目指して対応を始めているが、一足飛びに上がるものではない。こういう状況に陥った理由には数多くの要因(大学の乱立からくる研究費用の減少、定年延長からの年齢構成のひずみ、安定志向に走る研究者の増加、その他)があるだろうが、最も重要なポイントとして大学教員(特に教授)の質の低下があると考えている。正確に言えば、今の大学教員は30年前のような楽な状況ではないということ(雑務が莫大に増加しており研究時間が大きく減っている)があり、過去の教授の質が高かったと必ずしも言い切れないという意見も十分理解できる。それでも、研究において競い合う対象を持っているのかどうかわからない覇気のない人が少なからずいると感じるのだ。もっとも、そうした人ほど大学教員(特に教授)としてのプライドだけは非常に高いのだが。私は、大学教員にプライドなどそれほど必要ない(と言うか、持ち出す必要などない)と思うが、そう考えない人が予想以上に多いことに驚いた。

 一般に大学教員には、研究と教育、そして社会貢献が求められている。その中で、素晴らしい成果を上げている研究者を数多く知っている。だが、同時に十分な成果を上げなくとも辞めさせられない状況や問題点も存在している。特に、最上位ポストである教授に昇進すれば、それ以上は努力しなくとも定年(現在は65歳が普通)まで安定した収入が得られることがマイナスに働いているケースに目が付いてしまう。個人的な印象で恐縮だが、私が知る限り大学も他の企業と同じように約20~30%の稼ぎ頭:研究成果を上げる人がいて、約40~50%のそこそこ貢献する人(敢えて「普通」のレベルと呼称する)がおり、20~30%の成果を上げていない人が存在する。これは、社会における一般的な分布とあまり変わらないので、大学が特殊であるという訳ではない。そんな中、研究成果を上げていない教員ほど「教育」の重要性を主張する傾向が高くなるほは自明の理だが、実は優れた研究者である人の方が同時に優れた教育者でもあるケースが多いように感じる。教育の重要性を主張する人が、現実に教育的な成果をどれだけ上げているのかは正直よくわからない。もちろん、これは大雑把な印象からくる話なので個別のケースを見ればいろいろとあるだろう。

 

 大学における研究には基礎研究もあれば応用研究もある。応用研究は成果がわかりやすいが基礎研究はそうではないとされる。そのため、成果が出なくとも基礎研究を継続させる環境が重要だとされる。そのこと自体に反対はしない。私もそう思う。だが、50を超えて成果の出ない研究(というか、成果を出そうとして研究を行っているのかどうか疑問なケース)がままあるのだ。これを問題にするのが難しいのは、それが貴重な研究であるかどうか、あるいは成果を出そうと努力しているのかどうかが他者から判断できないことが多いからである。

 特に研究者は専門外の人から自分の研究に口を出されるのを非常に嫌う。結果としてどの研究者がどのような研究を行っているのかが、今一つはっきりとわからないなんて話があるのが実情であろう。こうした状況は、大学のIR化により改善していくとは思うが、結果として成果を残していない教授が数多くいたとしても、それらの人材を排除できないという大きな問題を抱えている。更には、そうした古参の人たちが大学運営に強い影響力を持っていたりするのである。言い方は悪いが、研究よりは学内政治を行っていると言ったほうがいいだろうか。

 

 60歳を超えても素晴らしい研究を続けている人がいると同時に、50代前半から定年に向けた時間つぶし(もちろん、批判されないよう最低限のことは行っているが)に突入する人もいる。さらに成果を上げていない人ほど、研究成果を可視化することに対して大きく反発する。自分の分野は容易に結果が出ないので比較するのが不適当だとか、頭が悪いわけではないので理屈を語らせれば非常に強い。今の時代、若手教員には厳しいハードルがいくつも課せられており、その条件はかつてよりも随分と上がっているのではないかと感じる。そんな時こそ、高い給与を得ながらそれにふさわしい成果を上げていない教授のことを「ゾンビ教授」と呼んでよいのではないかと思う。政府が支援して活かしているゾンビ企業と似たようなものである。確かに過去において素晴らしい業績を上げたかもしれないが、今それを継続できていなければやはり「ゾンビ」と呼称したい。これを解消するためには、個人的にテニュアテニュア - Wikipedia)をいったん解消してもっと限定した形で再導入したほうが良いのではないかと考えている。こうしたゾンビ教授を減らしていくために効果的だからであるが、実際にはそんな過激な策は訴訟を考えると取れるはずもなく、新たな教員採用に対して義務付けていくことになるのだろう。それでも、今の大学に対してはそれくらいのショックはあっても良いと夢想してしまう。大学がなかなか変わらないのは、旧態依然の状況を守ろうとする人が力を持っており、その発言力が強いことが理由であろう。ゾンビ教授の発言力が常に高いとは限らないが、過去の実績の身を誇り現在の自分を客観視できない人が多くなっては欲しくない。

 大学教員という地位は安住の地ではなく、常に切磋琢磨する「虎の穴」のような場所に変えていくことで、日本の大学の価値は間違いなく向上していくだろう。特に昇進を目指す教授以外のポストではなく、その先の昇進がない教授というポストにこそ必要ではないか。また、アメリカのように、専門の経営者を大学に導入するという方法もあるだろう。大学という大きな組織を、素人の教員が運営する状況は普通に考えるとなかなかにおかしい。研究者たちは研究に専念すべきであり、むしろ様々なしがらみから解かれる方向にもっていくことが望ましい。日本の大学に不足しているのは、自分たちの力でお金を稼ぐ能力である。数多くの研究者という貴重な資源を有しておりながら、それを無駄に(個人としては満足できても組織としてはパフォーマンスが十分でない状態をこう言いたい)垂れ流しているのは非常にもったいないし、同時に同じ教員同士だからパフォーマンスの低い教授を見守るしかない状況がある。稼げる大学に変えるためには、そのための専門家を雇い任せた方が良いではないか。もっとも、日本の私立大学がそこまでよいかと問われれば疑問もあるが。

 

 研究の自由を奪うというのではない。自由な風土を無くそうというのでもない。自由に研究し、その結果として社会に貢献してほしい。大部分の大学教員は素晴らしい人であり、問題がある人は一部と言ってもよい(個人的には10%程度?)。

 私は大学とは知識を与える場所ではなく、知恵を与える場所だと信じている。知恵を与えるためにはその体現者が教員であるべきであり、それ故に大学教員は研究を常に行い学生たちに見せなければならない。研究を進める姿、その取り組み姿勢、取り組み方や情報収集の方法、あるいは人脈の作り方、発想方法やプレゼンテーション法など、過去の自分の姿ではなくリアルな場面での生の自分を見せること。ゾンビ教授は口先での指導はできるが、実際に活動する自分を見せていない。結局のところ、教育においても最低限の成果を成し得ていないことにつながる。

 日本の未来は大学における研究と教育にかかってる部分が少なくない。良い方向に向かうことを期待したい。