Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

ものごとを気楽に考える

 植木等が演じた「無責任男」風のサラリーマンは、当初かなりいい加減な人間だったが、映画を重ねるごとに誰もがうらやむモテ男やスーパーマンに変わっていった(植木等 - Wikipedia)。だが漫画や小説の世界ならいざ知らず、今の時代では彼が演じたような人物像は受け入れられないかもしれない。コンプライアンスやポリティカルコレクトネスは、人々に学級委員長的な無言のプレッシャーを与え、清く正しく真面目に生きることを押し付ける。このスタイルはある意味で硬直的であり、横道にそれることを由とせず、ある意味において人の言うとおりに働くロボットを生産しているように感じることがある。

 だからと言って「人は自由に生きる方が幸せか」と聞かれたなら、それも違うと答えるだろう。人は自由に羽ばたくべき(あるいは羽ばたける)ポイントやタイミングがあると思うのだ。まず一つには、責任を持たずにいられる時。それは幼少期であったり、あるいは組織的な理由により自由が与えられる時が該当する。一種の特別扱いが許されるケースである。もちろん、社会にはルールがあり、その制限を無視してまで自由にいられるわけではない。だからこそ子供にはしつけが必要(ルールを認識できない子どもは野獣と変わらない)とされ、新入社員にも組織や社会に馴染むための通過儀礼が存在する。

 それを軽んじる人もいるが、私は非常に重要な機会であると考えている。もちろん、その通過儀礼が人そのものの存在より優先し、時に個人の能力を発揮する機会を奪うだけでなく、人の存在を否定するようなケースまで許容するつもりはない。物事には丁度良いバランスがあり、その人の能力や性格に応じて常に最適値は異なる。ただ、きちんと基礎を学ばなければならない時期には、それを逃れて良いことなど何もない。若いころ、あるいはその仕事に飛び込んですぐの時点、才能の欠片を示す人はある程度いる。それを伸ばしたいと考える人は少なくないだろうが、才能だけでは一定以上のレベルには達しない。才能と訓練が複合されて、ようやく次のステップのスタートにたどり着ける。

 

 一方で、こうした基礎的な訓練(練習)は単純に見れば退屈なものでもある。その効果が容易に見えないこともあるが、体に覚え込ませるような内容を頭で理解しても意味がないことがそうさせる。時に、厳しく接する指導者(あるいは上司)のいう言葉を真に受け精神的に追い込まれてしまうこともあるが、実際には少し前に書いたように自分を追い込むのは多くの場合において自分自身である。

 敵が自分だと考えれば、気分は楽にならないだろうか。本来自分は味方であるが、自分の義務感、その裏にある自分自身が自覚する弱さが自分を追い込んでくる。冷静に関賀れば馬鹿げた話。逃げ道などいくらでもあるし、意地悪な上司に対する反撃方も探せば効果的なものが容易に見つけられよう。

 私は、「開き直り」をいつも活用する。もちろん、それを使い続ければ効果は大きく低下し、他者からの評価が下がってしまいかねないので、普段は懐に仕舞い込むことになるが、持っているという安心感が生まれるのだ。極論を言えば、最悪の事態を想定してそれにより自分が受ける最悪の損害を考える。最初は慣れないかもしれないが、繰り返していくうちに徐々に心が慣れてくる。繰り返し注意しておくが、開き直りはここぞと言うときに使うためにおいておくのが最も正しい。何度も用いれば、単なる我儘なキレキャラに落ちぶれてしまうのだから。

 

 しかし、不思議なもので心の中で何度も開き直るトレーニングをしていくと、いつのまにか物事を気楽に考えられるようになる。確かに、最悪を想定すれば会社を辞めるとか、大きな借金を背負うという可能性もあるだろう。そうならないために、早急に手を打つことは必須だし、わざわざ危機に向かって飛び込む必要はない。だが、元来よりポジティブな人ならいざ知らず、多くの人が深刻に悩むような問題は、すでにかなり悪い状況を想定している。そこで、守らなければならないものを設定してしまうと、それにより身動きが取れなくなってしまうことが多い。心に決めた守るべきものの重要性が、実は行動しないことにより受けるダメージよりも低かったとしても。

 「気楽に」と軽く口にできるようなものではないかもしれないが、そんな時には自分の目の前に立ちふさがる問題をゲームやドラマのように置き換える方法もある。自分を当事者から離してしまうのである。当事者というポジションは、どうしても物事を主観的に見てしまうために、全体像を見渡しにくい。一時的でも良いので、第三者的な立場から自分の置かれた状況を俯瞰できれば、これも冷静になるために効果的である。

 私などは、人間関係のトラブルがあった時には、ついついそれをゲームとして捉えてみてしまう(この場合のゲームは、TVゲーム等ではないが)癖がある。そう、トラブルを楽しもうとしてしまう。嫌な仕事を早く終わらせるために、嫌な作業に様々な方法で楽しみ方(時間を競う、何かを嫌いな人と見立てて遊ぶ、等)を導入してきた経験が役立っていつのかもしれない。

 

 真面目な議論の時に、ふざけたことを言って叱られた経験がある人も多いだろう。だが、それも決して悪いことばかりではない。心の自由を取り戻すためには、囚われた状態から解放される切り替えが何よりも重要だ。必須のトレーニングを楽しみ、危機的な状況を冷静かつ気楽に乗り越える。そんなことができるのかと聞かれれば、できるかどうかはわからない。ただ、自分の力が万全に発揮できる状況を如何に準備できるかは、考えてみれば当たり前のこと。その上で、自由な発想を広げるのも心に余裕がなければ行えない。

 私は、真面目に、しかし気楽にというスタンスは決して悪いものではないと考える。それをどのように作り出すかは人それぞれであろうが、真面目過ぎるのも肩が凝るではないか。ものごとは、真面目に、しかし気楽で、大胆にいきたいものである。