Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

国家の分裂を留めるkey

 韓国では、左派政権が今後の永続的な支配体制を強固にすべく、様々な手を打っており、結果的にはクーデターでも起こさない限り政権交代が起こらない仕組みを確立しつつある(文在寅政権が韓国の三権分立を崩壊させた日 「高官不正捜査庁」はゲシュタポか | デイリー新潮)。これは民主主義の大きな後退ではあるが、現在の文政権樹立時には「韓国の方が民主主義が進んでいる」といった明らかに間違った言説を唱える識者たちがいた。韓国では、大統領とその取り巻きが三権を実質的に掌握し、三権分立はお題目に過ぎない状況になりつつある。このような状況に至ったのは、主義主張の全く異なる二つの勢力(保守と進歩)が地域的な分裂の含めて真っ向対立しているからである。政権が変わるたびに、前政権に近かった者たちは公職を追放され、少なからぬ数が逮捕される。もちろん、権力者が甘い汁を吸うのが当たり前の文化があり、そこに関係者が群がる構図が根付いていることが最大の病巣ではあるが、その負の連鎖を止めようとしないところに問題は集約される。

 この負の連鎖から逃れるとすれば、政権交代が生じない状況を作り出すこと。ある意味では文政権は、その目的に向けて着実に歩みを進めている。だが、その帰着は民主主義とは全く相いれない独裁に近い状態を確立することであった。専制君主を打倒し、民主主義の良さを指向してきた近年のイメージとは全く別の結果に到達しているのは、喜劇というよりは空恐ろしさを感じる。少し前に、大学内に文政権を批判する壁新聞を掲示した人物が起訴された(檀国大構内に韓国政府批判の壁新聞掲示、建造物侵入罪で起訴 - ライブドアニュース)との報道があった。罪状は不法侵入。常に多くの人に開かれている大学キャンパス内の建造物に不法侵入したとの理由づけであるが、親告罪である名誉棄損を理由とするためには大統領が提訴しなければならないため、それを避けるための方法だと理解されている。韓国において公人にどこまで名誉棄損が成立するかわからないが、言論の自由との兼ね合いでかなり厳しい取り扱いであるのは誰もが感じるのではないか。中国における習近平批判と状況は似ている(罪の重さは異なるだろう)。

 

 なにも対立が激しいのは韓国だけのことではない。むしろ、独裁国家以外では日本ほど対立のない国はないといってもよいかもしれない。確かに日本の野党は政権との対立姿勢を示しているが、それは人気投票上のパフォーマンスレベルに留まる。むしろ、アメリカにおける政治思想対立も日本とは比べ物にならないほどであるのは面白い。

 トランプ大統領の登場で「ポリティカルコレクトネス(ポリティカル・コレクトネス - Wikipedia)」が大きな注目を浴びたが、これは政治的な中立性を志向しながらも、実情としてリベラル系の考え方を広めるために機能している例が多い。アメリカでは「メリークリスマス」というフレーズが消えていったこと(アメリカでは「メリー・クリスマス」は使わない!?アメリカと日本のクリスマスの違い | b わたしの英会話 - 女性のためのマンツーマン英会話)を知る人は多いだろうが、似たようなことに対する反発がゆっくりと進行していることが背景にある。問題は、こうした対立に対する妥協案が示されればよいものを、賛成あるいは反対の二項対立が押し進められていることにある。

 

 言い方が適当かどうかはわからないが、「謝ったら負け」の社会が分裂を生み出している。それは寛容さを前面に押し出し主張する人の多くが、実は寛容ではないということを意味する。ポリティカルコレクトネスのケースでもそうだが、それを推し進める人たちは、その概念に賛成しない人に対して非常に攻撃的である。何も差別を助長しろというつもりはないし、ヘイトを煽るつもりもない。ただ、妥当な落としどころが別にあるかもしれないものが、それを十分に探ることなく対立として社会を分断しているのではないかと思うのである。

 昨年日本を熱狂の渦に陥れたラグビーに「ノーサイド」という言葉があるが、政治的な活動にはノーサイドという概念は見当たらない。これは、実情として自分の非を認めて謝るよりも、あらゆる手段を使って相手を貶める方がメリットが高いことを示唆している。協調するよりも敵対した方が、自分にとってあるいは自分が所属する集団にとって都合が良いことの裏返しなのではないか。それは、決してサスティナブルな概念ではなく、むしろ短期的な利得計算に基づくようなものだと思える。

 

  民主主義は選挙により成立しており、それは多数決の論理である。だが、単純な多数決のみで物事を決めた場合、最悪49%が反対する施策が強行されてしまう。それを防ぐために日本の議会ではネゴシエーションが行われ、反対派の意見を如何に取り入れるかに腐心している。その行為は完全なノーサイドではなくとも、ノーサイドに近い結果を導くための努力ともいえる。落としどころを見つけるという作業は、人類の英知と考えてよいのではないか。

 だが、実際に社会に広まっているように見えるのが自分たちの考えに相手を染めるという認識。その典型は宗教だが、逆に言えば相手方の考えを最初から理解するつもりがないところが特徴である。いくら丁寧に説明しようが、元々のスタンスがそれであるとすれば、表面的には柔軟であっても内情は非常に頑なである。

 

 極論をもって注目を集めること。それにより収入を得る方法論(SNS等による収益)の台頭。これが社会の寛容さを減少させているのではないか。もちろん、既存のマスコミ等も社会分断に大きく寄与をしている。乱があればそこにニュースが存在し、それが飯のタネになるというビジネスモデルは、平時に乱を起こすことを企図する。乱とは対立である。だが、マスコミはその信用を大きく棄損しており、その先にあるマスコミが利用する社会的な発言力を持つ人たちの力がクローズアップされる。

 先ほど示した収入の側面は、自らのスタンスを明確にすることが必須になる。中庸や寛容の精神を示せば自らの存在感は埋没してしまう。組織における社会的な地位がある人の場合にはともかく、個人としての発信力に収入を依存する人は、結果的に自らのスタンスを崩すことができず、他者と寛容に接せられない存在になる。

 

 まだ、世界において日本はマシな方だと私は思っている。多彩な神の存在を受け入れてきた感覚、単一民族とは言えないものの同質的な認識を抱く人が多い状態。それ故に分断しなくとも何とかなる状況。だが世界の変化は著しく、日本も当然その波に巻き込まれていく。そんな中で、日本人が妥当な落としどころを見つける努力を続け、国家の分裂を起こさないように祈りたいものである。