Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

価値観依存症

 ここ数回続けて韓国に関するエントリばかりになってしまったため、さすがに自分自身でも食傷気味になってしまった。この一連の流れは、韓国の自滅的な行動を自国のため(さらにはアメリカのため)に仕方なくカバーしてきた日本も、韓国の重要性が低下したからこそ普通の対応を取るようになれただけに過ぎない。今、日本の対処を批判的に報道しているメディアは、今後の信用力低下を真剣に悩むべきではないだろうか。ただ、朝日新聞他も社説で一回だけ書いたのみで、その後はほとんど触れていないことから、分が悪いのはわかっているが言い訳的に少し意見を書いたと言うところか。

 

 さて、話は変わる。G20における米中の見せかけの一時的な手打ちはあったが、国際的な対立を見るにつけ、米中の対立は単純な経済摩擦から価値観の対立に進行しつつある。他方で、まったく異なる出来事ではあるが日本の婚姻が減少するのも、恋愛至上主義という価値観の広がりが隠れた主因であるようにも見える。このように全く関係もない二つの問題とは言え、私たちが獲得してきた自由の一つに存在する価値観という概念は刃物の様に私たちの使いようにより大きく価値を変える。

 私の個人的価値観によると、価値観とは本来手段であるべきではないかと思うが、時にそれは自己のアイデンティを主張するための拠り所となっている感がある。アメリカが使うそれも中国が使うそれも、両者を曖昧に含みながら利用されている。価値観に殉じるのは真っ直ぐな馬鹿で、価値観を道具としてしか捉えられないのは、別の意味での価値観に支配されているという意味で同じである。

 

 ところで、価値観とは私の個人的な解釈では、各自なりの判断基準だと認識する。もちろんそこには深さもあれば広がりもあるので、容易に定義づけできるものではないかもしれない。また、価値観は個人に留まらず集団としても存在し、規模が大きくなれば上述のように国家間の紛争に発展する。さらには全人類を覆うような普遍的な価値観が提唱されることもある。問題は、個人的な価値観は本来自分の判断で変更できるはずなのだが、それを拠り所にしてしまった段階で変更が困難になってしまうことにある。人は完全でないため、そのミスを常々修正していく必要がある。もちろん他者の意見に振り回され続けることは愚かであるが、自分が正しいと思い込むことも同様である。

 ただ、自分の価値観の正当性を常に問い続けることは、大きなストレスを自分自身に与えることでもある。信じるということには、それなりの葛藤を経てたどり着くもの。その努力を気軽に覆すなんてことはなかなかに認めにくい。

 

  価値観は、言い換えれば自分なりの常識なのだ。だから、それは広い意味での正義とは言えないし、狭い意味でもそうだと思う。常識とは、特定の範囲内で通じる最も合理性の高いルールを意味する。個人の常識、家族の常識、地域の常識、民族の常識、国家の常識、世界の常識と様々なレベルがある。そして、範囲が広がるほどのその常識は曖昧なものにならざるを得ない。個人では厳格に常識を決めることができるが、国家や世界ではそれが難しいため法律や条約を作って、常識を公式化していく。

 だが、その法律などのルールが都合悪くなることは多々存在する。自分たちの常識とルールが抵触してしまうこと。多くの場合には、広く通用するルールを立てることになるが、それに反発することや従わないことも消極的に認められていることがある。集団を維持するためのバッファーであり、時には個人的な矛盾を曖昧にさせるための方便であったりもする。

 

 自分なりの基準に従う方が、心理的な葛藤は低くてよい。国家レベルになると、価値観が時に自国の在り方そのものを決めてしまうことすらある。中国やイスラム主義国家の場合、国家を維持するためにそれが無ければならない。そういう意味で、アメリカなどと比べると非常に不便で不自由である。

 アメリカも相応の国家としての価値観を持っているが、反社会的でない限り価値観を強制しないだけの度量は持ち合わせているし、日本も同じである。ただ、それを個人レベルで完璧に為すことはなかなかに難しい。

 

  私たちは自分なりの価値観を持つことは重要である。それが自分が生きていく意味の一つを形作っている。だが、同時に社会にある常識を上手く活用することもこれまた重要である。常識を自分の価値観と対立する要素と捉えると、途端に世間は生き辛くなってしまう。だが、両者は必ずしも対立するとは限らない。アメリカと中国が価値観としては全く対立しているにも関わらず、争いながらも共存していく形を探っているのが現在の状態。

 私たちも、社会に存在する様々なルールや常識を如何に上手く活用して、それを自分の価値観を実現していくために使っていくのか。それこそが問われているのではないか。当初触れた恋愛至上主義についても、実はそのような造られた価値観は社会の受け売りかも知れないのだ。自分の価値観が最高だとは思わないように、たまにはそういう思考も行っていきたいと思う。