Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

疑似大家族の勧め

 少し前は「パラサイトシングル(パラサイト・シングル - Wikipedia)」、ここにきて「子供部屋おじさん(「子供部屋おじさん」問題 社会人が実家で暮らすそれぞれの理由|NEWSポストセブン)」と、呼称は変化すれど実態は基本的に同じであろう。昔も今も一定数こうした人たちが生まれるのは事実であり、それは人間の種として避けられない事態(というよりは調整弁として存在している)のではないかと思っている。

 昔と比べて社会が厳しくなったかと言う声もあるが、私の感覚では物理的な生活感は楽になり、心理的な人間関係は複雑になった感じだろうか。生きていくための余裕が生まれた分、人間関係や社会システムはどんどんと複雑になっていく。人は楽には生きられないようにできている。同時に、強いて言えば経済的な余裕が出た分だけ人間は弱くなった。そもそも、人は本能的に最も自分にとって有利な選択をしようとする。ここで言う有利な選択はあくまで個人的な判断であり、第三者から見れば合理的ではないように見えるかも知れない。ただ、合理性とは言い換えれば楽をする方法の選択である。人により楽をしたいと思うポイントは異なる。そして、楽したい部分を技術により代替することに慣れるほどに、私たちは心理的な抵抗力を弱めている。もちろん便利になることが悪いわけではない。私たちはもはや中世には生きられないのだから。ただ、それでも生きる力を少しずつ失っている。これは進化ではなく、人間としての退化なのかもしれない。

 

 そんな中、社会を見渡せば村が都会になり、それに伴い大家族が核家族に変貌し、今や一人暮らしがスタンダードにすらなりつつある。村社会の方がが都会暮らしからすれば快適と感じる人が多いのは、一つに都会暮らしに慣れた人が多いことがある。例えばであるが、リタイア後に村に入った人たちが逃げていく姿を見ればよくわかるではないか。濃密すぎる人間関係に耐えられない。村の関係性に満足できる人はいいが、その数は相対的に少ないのであろう。

 一方で、都会ではそうした濃い人間関係を排除しすぎてしまい、結果的には人との関わりを探す人が溢れてしまった。SNSなどはそうした心の隙間にフィットし、社会に広く普及した。逆に言えば、SNSは都会で不足していた部分を埋めていると考えることが可能だ。心の隙間を満たせるほどではないが、それでも小さなつながりを感じることで自分の存在感を肯定できる。そこに頼り切ってしまうには脆すぎる関係ではあるが、無いよりはマシであるケースも少なくない。

 当然、弱い関係のためのツールとは言えどもリアルとつながるSNSは容易に人を追い詰める。それがまた社会問題となる。

 

 私は、村社会ほど濃密ではない、しかし都会ほど関係性が希薄ではない生き方を探るべきだと考えている。それを疑似大家族と呼びたい。何も宗教めいたものを想像している訳ではないし、哲学的な何かを言おうとしているつもりもない。単純に、人々は昔と比べて精神的に弱くなっており、それは文明技術によりカバーできないのである。

 要するに、人は寄り添わなければつらいのだ。ただ、責任を背負わないことの楽さを知ってしまった人々は、個の権利を主張することで自らをゆっくりと追いつめている。であるならば、少しでも許容できる集団を作る必要がある。それは必ずしも家族である必要はない。嫁姑問題を始め、価値観の異なるところには争いが生じがちである。それよりはむしろ価値観が近い者同士が寄り添ったほうがいいではないか。

 

 生きていくためには、価値観が異なる人間とも付き合っていかなければならないのは間違いない。それを避けて生きられるほどに人間社会は天国ではない。だが、自分の居場所を作ることすら許されないとすれば、それは悲しすぎる。

 できれば、仮想上のSNSではないリアルの疑似家族・疑似集団的なものがもっと増えてもよいのではないかと感じている。ビッグデータを用いることで相性の良いカップリングは一部結婚紹介所などにおいて始められつつあると思うが、生産性を上げるための企業における人事配置すら時と共に進められるだろう。それが100%の成果を上げるとは考えにくいが、社内の人間関係によるトラブルを防ぐことは企業利益に合致する。

 

 さて、それを生きていくための集団・生活のための集合体にまで進められるかどうかは、今のところ何とも言えないでいる。本当に社会を相性により分断してよいのか。それこそは、益々人間を精神的に弱い存在に追いやるかもしれないのだから。だが、それでも金銭問題以外の自殺者の多くは人間関係により発生しているのも事実。

 弱くなった人の心をトレーニングすべき側面もあるが、常に厳しい状況に置かれれば耐えられない。私としては、三世代同居を近隣で行う親と子のプライバシーや価値観を守りながらも共助できる「近隣大家族」をまず推奨したい。親子関係が極端に破綻していなければ十分に役に立つ。その上で、家族関係が修復不可能な場合や、家族の近くに住めない場合には疑似家族的な集団を推奨していく仕組みがあればいいのではないかと考えるようになった。

 社会を取り巻く世界的な競争は、今後減少するとは思えない。だとすれば、一息つけるオアシスはどこかにあってよいと思うし、それを地縁や血縁と言う形で縛る必要はない。ただ、バーチャルでは不十分。そう考えるがいかがだろうか。