Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

自由と少子化

 少子化の最大要因が婚姻数の減少であることは、そろそろ社会的認知を得られただろうと思う。待機児童数の減少を狙い保育所の増設を頑張ったからと言って、少子化が根本的に解消されるわけではない(男性の4人に1人が「結婚歴なし」 もはやお金じゃない! 「子育て支援」は少子化防止の切り札にはならない? : J-CAST会社ウォッチ)。もちろん社会福祉サービスの一つとして、実施に一定のメリットがあるのは事実だが、根本的な解決は婚姻数を増加させるしかないのである。

 ただ、実情として婚姻数の減少数は見合い結婚の減少とほぼ等しく(日本人の結婚が減った原因は、見合いと職場結婚のせいである【コラム10】|荒川和久@「結婚滅亡」著者)、家という関係性が希薄化した現代社会において、見合い結婚が増加するためのインセンティブはほとんどなくなってしまった(これが現実。お見合い結婚の割合はなんと○%! - まりおねっと)。それは、仮に政府や地方自治体が積極的に支援したからと言って、容易に好転するようなものではない。見合い結婚とは家という背景につながる一種の義務を負った関係。だが、自治体が行う形には義務は存在しない。仮にどれだけ「見合い」と呼称し宣伝したとしても見かけだけ。結局のところは、自由恋愛の後押しに過ぎないのだ。

 

 このような雰囲気を押されてできあがった現代社会に蔓延する新たな恋愛結婚至上主義は、「結婚の前提に恋愛が必須である」という間違った常識を構築してしまった。結婚に恋愛性が必要ないとまで主張するつもりはないが、必ずしも必須ではないという考えはもはやほとんど受け入れられないだろう。社会を概観すると、このマスコミなどの仕掛けにより作り上げられた(と私が考える)常識は、解消されるどころかむしろ増殖し発展しているように見えてくる。なぜ恋愛至上主義恋愛至上主義 - Wikipedia)のような考えが社会において大きく広まったのか。それを考えるとき、個人が獲得した(あるいは理念として押し付けられた)自由が背景にあるのではないかと感じる。 

 昔からある家という関係は、個人を縛り付けるものとして近年忌避されてきた。家や親族は村社会(村社会 - Wikipedia)における互助関係である。血のつながりという、他のものよりもずっと信用に値する関係性が、食べること・生きていくことに必死であった時代においては何よりも大切であり、守るべきものであった。だが、今や社会の発展に伴い家を守らなくとも皆が生きていける時代になった。いや、私たちはそのような社会を目指し作り上げてきたのだ。そして現在、それにより得られた理想の自由を謳歌しているはず。だが、その帰結として少子化という成果が生み出されたとすれば、何とも皮肉というしかない。

 

 他の意見として、少子化は高度な衛生環境や医療技術の発展に伴う結果と考える人もいるだろう。人が死ににくなった社会。そこでは必然的に多くの子供を必要としない。かつての多く死ぬ社会は、多く生み、育てなければ成立しない社会であった。必要がなければ生み育てる積極的意思も低減する(夫婦の理想子ども数、過去最低の2.32人 | リセマム)。それよりは手に入る範囲での、無理をしないレベルでの子育てに留めたいと考えてもおかしくない。

 ただ、結婚した夫婦の平均的な子供数は徐々に減少しつつあるものの、おおむね2.0程度(女性は一生で何人の子どもを産む?|公益財団法人 生命保険文化センター)。理想数が減少しているので大幅な増加は望むべくもないが、少子化をけん引しているかと問われれば、それは違うだろう。やはり、結婚しないことのほうがずっと要因として大きい。生涯未婚率という数字がある(男性23.4%、女性14.1%…生涯未婚率の現状と今後(2019年公開版)(不破雷蔵) - 個人 - Yahoo!ニュース)が、もはや男性の1/4が結婚を一度も経験しない。女性もおおよそ1/6である。これだけ婚姻数が少なければ、少子化は避けては通れないのも当然であろう。

 結婚に踏み切らない理由として、年収の問題がよく取り上げられる。それは確かに一因としてあると思うが、私はそれ以上に恋愛に臆病な人が増加していることの方が重大ではないかと考えている。ここにも現代の新しい恋愛至上主義が関係していると睨んでいるのだ。恋愛は正しいものでなければならない。恋愛は完璧な状態に至らなければならない。お互いに相手を認め合うような状況でなければならない。。。と。

 

  恋愛を経て結婚した人ならわかると思うが、結婚の在り様は千差万別である。もちろん大恋愛の末に結婚して、その後もずっと他人がうらやむようなラブラブの夫婦も確かに何人かはいるだろう。だが、多くの場合には付き合っていた時期に燃え上がった恋愛感情も、数年たてば徐々に冷めてくる。その先には新たな繋がりや絆が生まれてくることも多く、それこそが家族になるということだと思う。

 時には打算で家族関係を継続することもあるだろうし、別れたいのに経済的な理由等で踏み切れないこともあろう。あるいは、思い切ってすっぱりと分かれてしまう人も決して少なくない(日本人の離婚率はどれくらい?離婚統計から見る離婚率の推移とは? | カケコム)。おおよそ3組に1組は離婚しているという現実がある。

 

 恋愛とはその程度のものなのだ。だが、常識となってしまった恋愛至上主義は、次にも高い恋愛のハードルを人々に与える。もっとも、それを一度乗り越えた人は、再度の結婚に対するハードルは低くなっていると思う。もちろん、「結婚はもうこりごり」と考える人にとってはその意識は湧かないかもしれないが、摩擦力と同じで恋愛も結婚も数を重ねるごとに抵抗が少なくなる(数が多くなりすぎると冷たい視線を受けるが)。

 言い方を変えれば「食わず嫌い」という言葉の方がしっくりとくるかもしれない。その上で、一生懸命経済的な損得を計算してみたり、一人が好きなことを強調してみたりもする。もちろん、人によっては他者と全くコミュニケーションを取れない方もいるので、全ての人が恋愛できるというつもりはない。ただ、そう答える人の数よりも本当にできない人の数はずっと少ないはずである。

 要するに、隣のおいしそうに見えるご飯はきっと不味いのだ!

 

  恋愛のハードルを下げる。社会的に行うべきことは、それであると私は思う。出会いの数を増やすだけでは足りない。その上で、家族を持ち子供を育てるということは、簡単なことではないものの、ハードルの高さに応じて喜びを与えてくれるものでもある。もちろん何もせずに喜びは得られない。だが、私たちが最も力を発揮できるのは、誰かのために頑張るときなのだから。それは、実のところ少し不自由だが心地よい。私たちは、長い期間を味わうことのできる心地よさや安心感のために、今考えているよりはもう少し不自由さを受け入れてもよいのではないだろうか。