Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

弱い人ほど強さを誇りたがる

 学歴、立場、権威、財産、才能、その他さまざまな優位性。私たちは、時と場合により自慢できる、あるいは自慢したいものやことをいくつか持っている。子供のころなら足の速さや面白い話ができることが人気者のきっかけになり、喧嘩が強いことやテストの成績が良いことも皆の尊敬を集めることもできた。もちろん、それを鼻にかけすぎればいじめの対象にもなりかねないが、それでも多くの場合において自分の立場を向上する要因として使えるのだ。だからこそ、自慢できるものを持っていることは自分にとってメリットがあると無意識のうちに判断しがちである。

 状況は大人になっても大きくは変わらない。子供時代と比べて分別がついただけ露骨であるかどうかの違いが存在するのみ。自慢と単純に言うのが良いかはわからないが、何らかの優位性を全体的な地位の違いとして固定しようとする動きである。昇進には仕事ができることが大きなファクターとなるが、自分ができる部分をアピールするのは当然であろう。時に、それはゴマすりというコミュニケーション能力であることですらあるだろう。そして、自己の優位さを誇示する単純な自慢が、気づけばプライドという言葉に置き換わっていく。

 

 だが、人間は特定の優勢要因をもってすべての立場が決まるものではない。例えば親子。親には子を扶養し教育する義務がある。生活費は親が稼ぎ、食事も親が与える。両者には絶対的な立場の違いがある。親が否定すれば、大部分のケースで子供の希望はとん挫する。もちろん、未熟故に子供の希望が正しくないものであることは多いだろう。ただ、大人であるという優位性はそれだけの差異を生み出す。では、大人の方が子供より優れているのか。経験値により、大人が優れていることは確かに多いかもしれにないが、それはいつかの時点で逆転される可能性を持つ。

 私は、生物として社会における在り様として親が子供を扶養することは義務であると考えているが、それは親が優れているからとは思っていない。親と子は基本的には対等の存在だと考える。もちろん常識を身に着ける前の子供が、人として著しく未成熟であることは理解している。だからしつけは需要だし、時には強く叱らなければならないこともあろう。ただ、両者の間には人としての優位性が存在するわけではない。子どもは成長したのちに、次の世代に対して義務を課せられるのだから。

 

 世の中の関係には、両者の中でのみ完結する閉じたものと、他者との連関の中でバランスを取る開いたものがあると考える。基本的に、社会で見かける大部分の関係は開いたものであることが多い。開いているではわかりにくいので単純な具体例を出すと、AがBに、BがCに、CがDに、DがAにといった形でぐるぐると回っていく大きなループとなる関係性の方がわかりやすい。二者間で行われる閉じたギブアンドテイクの関係は、短期的で契約的なものの方が多い。友人同士における約束や、商売におけるWin-Winの関係などはこれに近いが、完ぺきに閉じた関係は存在しない。

 親子関係も世代をまたいだ無限の連環である。親から子に、子から孫に、どんどんと子孫につながっていく。自分は親から扶養を受け、子にそれを施す。ミクロで考えれば、親から十分な扶養を受けていないといった損得勘定はあるだろうが、感情を理由に大きな流れを否定することはできない。

 

 さて、社会に出ると(あるいは学校でも)自分の強み(特徴)を発揮して少しでも良いポジションを築こうとする。一般には「マウントを取る」などと呼ばれるように自分の方が優位な状況にあることを周囲に、あるいは特定の相手に知らしめようとする人がいる。だが、この行為は基本的に自己満足に過ぎない。他者から見えるその行為は、むしろ自らの客観的な価値を引き下げていく。

 心の余裕をもって考えたなら、当然気づくようなこうした当たり前の状況に気づけない人が一定の割合でいることが、迷惑ではあるが面白い現象だなと思うことがある。私の職場にもそうした人はいて、自分が受ける痛みには非常に敏感なのに、他者に与える痛みに対して鈍感である。自分が攻撃されたと考えると、反射的にあらゆるものを利用して威嚇反撃しようとする。あらゆるものとは、自分持っている地位すらも含まれ、要するにパワハラだ。

 

 本来、人間同士の対立構造は問題点を明確にしていけば、複雑に絡まった状況であっても比較的少ない問題となる結びを目を見つけることができる。それをどの様に解決するかにはいくつかの手法があるだろうが、その状態に至るまでは自分の感情に振り回されなければ論理的かつ冷静にたどり着ける。

  ただ、人間とは弱いもので自分の感情を全て制御することはできない。この感情に負けて自らの心を傷つけてしまう人もいれば、その感情を誰かにぶつけることで解消する人もいる。パワハラ的なものの後者の心理的な動きが関係していることがあると思うのだ。だが、その攻撃的な見た目に反して、そのような動きに出ること自体が当人の心の弱さを覿面に反映しているように感じるがどうだろうか。攻撃的な態度に出ることで自らの弱さを覆い隠そうとする自己防衛反応なのだ。

 もちろん、一部には嗜虐的な性格に基づきパワハラ的な行動に出る人もいると思う。個人的な愉悦に基づく行動。だが、それを露骨に見せられるのは自分が支配的な立場にいるケースであり、レアケースだからこそ発覚すればニュースにまで取り上げられる。実際にはその陰に数多くの無自覚な自分の弱さを代償行為により変換して、自覚しないという方向にもっていく事例の方が多いのではないかと想像する。

 

 もちろん当人は認めない。なぜなら認めてしまうと、自分の弱さを自覚しなければならなくなるのだから。そして、自分を支えているプライドが、単なる自慢に陥っていることすらを認識しないといけないのだ。

 私たちは基本的に弱い。そのことをはっきりと認識し、その上でそれを正しく乗り越えるために行動できることが一つの強さであり、それができない人はどれだけ攻撃的であっても弱い人なのだ。