Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

孤独と付き合う

人はみな孤独な存在だと言い切るのは簡単なことではあるが、現実には社会を営む存在であってそれ無しに生きていけるわけではない。たとえ精神的に孤独を感じていても、生きていく上で一切人と関わらずに過ごすことは非常に困難である。考え方を変えれば、人との交わりが不可避ならば本来はそれを利用することにより孤独から脱することは十分に可能であって、それができないと主張する理由は表面上存在しない。
ところが、私達は多かれ少なかれ同時に他者からの干渉を受けたくないという希望も有している。孤独と独立、言葉から受ける印象は非常に違うが主体的であるか能動的であるかの違いはあるものの、立ち位置について考えればそれほど異なるものでは無い。
そんな現実があるにも関わらず、孤独に怯えている人は多い。それはなぜだろうか。

結局のところ孤独に向き合う覚悟の問題ではないか。ある一定のレベルに達すれば、社会的な関わりを有していたとしても人間は基本的に孤独なものである。表面上の付き合いにおいては孤独ではないように見えても、同時に付き合っていくために自我を押し殺して振る舞わなければならないとすれば、仮面舞踏会のように空虚である。
自分が生きていくという自己の存在の積極的な肯定と、社会において一定の立ち位置を得るという自己そのものではなく社会投影された自己の消極的な肯定の間における葛藤が孤独感を増殖させている。
もちろん、人間関係に恵まれることで本来の自分を出しながらも人との関係を構築できる人も少なからず存在し、自分は孤独と無縁だと考えることもあるだろう。ただ、その状態を永遠に続けられるのだろうかと考えると、必ずしもそれは保証の限りではない。
職場や近隣関係では、個人の立場に投影された表層的な自我では無く本質としての自我を追い求める人は、往々にして自分勝手と評されることが多い。もちろん自分の快楽のみを追求することが主眼となっているのであればその評が間違っているとは言えないが、自己利益的なもの以外を目指している場合にはそれがどう扱われるかは難しい。

社会において他の人たちと協調することは基本であるが、自分を完全に押し殺すことで成し遂げられたとしても、却ってそれ自体が孤独感を生み出しているというのが現状ではないか。それが悪い形で進行すれば引きこもりなどの社会との接点を拒絶する形が現れるだろうし、あるいは自我の崩壊とも言える自主性の喪失に至るようなこともあるだろう。
ただ、好き放題に生きられる人は世の中にはそれほど多くはない。だとすれば、結局のところ自分らしさを出せるコミュニティ(すなわち一人ではないどこか)を何らかの形で確保することが重要になる。
ただ、社会で成功する人たちなどは外面的には幸せに見えるかも知れないが、おそらく私達が思う以上に孤独に耐えているのではないだろうか。なかよしグループは孤独感を紛らわせてくれるという意味では非常に重要ではあるが、世の中で前に進んでいく上では負荷となることも多い。
自我を失ってしまえば、社会における成功を得られる可能性は低下し、自我を押し出せばその分孤独感は深まる。
理想を言うならば、同じ様な努力を重ねる人たちとの友情が最も良いのだと思うが、それはすなわちライバルを持っていると言うことにも等しい。
孤独感を恐れるのであれば、ライバルという敵を作り出すことが重要になるのではないかと思う。