Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

グローバリズムと都市開発

 よく見ると、最近韓国関係のエントリが多くてかなり食傷気味なので、少し内容を変えてみたい。今回テーマにしたいのはグローバリズムについて。グローバリズムは決して避けることが出来ないが、だからと言って理想郷を導くものでもない。関連する内容について少し以前に触れた(ニューローカル - Alternative Issue)。グローバリズムは経済至上主義の人たちからの受けは良いが、それ以外の価値感で見ると新たな対立を誘発しているようにも見える。現在世界中で起きている現象の多くは、行き過ぎたグローバリズムとそれを如何に規制すべきか、あるいはそれを利用してどのように国や企業の成功に結び付けるかという闘争である。なぜ、グローバリズムは行き過ぎるのか。何を是正すればよいのか。私は既得権益打破は必要だが、その手法としての規制緩和は万能ではないと考えており、グローバリズムにおいても同様のことが言えるのではないかと考える。多くの場合、様々な規制は何らかの形で必要だが、最も問題なのは同じ規制が長らく続くことにある。結果として規制の網の目を抜ける方法を生み出し、あるいは規制に依存した収益構造が権利に変わってしまうこと。そして、グローバリズムは原則として規制を無くすべきという立場に立っている。適切な規制とはどうあるべきかが常に考えられなければならない。個人的には、どんな規制も例えば必ず20年経過すれば全面見直しをするといったルールを決めていくことが肝要ではないかと考えている。

 さて、ここのところトランプをはじめとする反グローバルな動きがフィリピンから、欧州やブラジルなどへと広がりを見せており、見渡せばリベラルを自称する政治・言論勢力はやや押され気味に見える。現象自体はグローバリズムの広がりに対する反発であるが、それが反グローバル勢力に力を与えている。激しさの違いはあるとしても、日本における自称リベラル勢力の衰退もほぼ同じ流れにあるだろう。日本における自称リベラルの思想や行動が世界的な潮流と異なるのは少し調べればわかるが、もう一つリベラリズムグローバリズムの間に親和性があることも容易に合点がいく。素直に考えると、自由であることを突き詰めていけば世界を一つにすることを目指すのは自然な流れと言える。問題はその統治システムが見えにくいことであろう。無秩序と自由には明らかに相違があり、その線引きこそが最も重要となる。現在のグローバリズムは、世界を股に掛けた経済的な搾取システムと言えなくないが、精神面での世界市民的なそれと混同されて用いられているように見える。だが、両者は同床異夢の関係にあり、前者は自由主義の先にあり後者は社会主義的である。その二つが親和的に振る舞っているのは、私には不思議な光景に見えなくもないが、どちらも自らの思想を広げていくという意味では共闘できる段階なのであろう。

 既に触れたようにこれまでグローバリズムは、経済的に資本家の利益追求、思想的に世界市民的な幻想の二つをエンジンとして、目に見えない途上国住民酷使の成果を果実として先進国国民により無意識的に承認されてきた。ただ、成長段階ではネガティブな矛盾(先進国における所得水準低下)を誤魔化し切れたものも、世界的に広がればこれらの矛盾の破たんは必然であった。その綻びが今明確化しつつあり、現在そのせめぎあいを私たちは目にしている。この方法論は、計画経済の考え方に近いのではないかと個人的には思っている。一つの考え方を普遍化することで、全てが上手く行くという科学者の夢の様な理論を追い求めているという意味において。

 私には、こうしたグローバリズムの広がりは都市開発にかかる問題と似ているように見える。成長期には、細かいことは置いておいてもとりあえず形を作り上げることに注力し、計画をどんどんと進めていくのが重要となる。近年の中国のように何もなかった土地に新たな都市を作り上げる場合、コスト面・環境面を除けば新規開発の障害は少ない。だが、既に人が住んでいる場所の開発は問題は複雑であり、誰もが満足できることは少なく地域としての最大化は非常に困難となる。加えてそれには長い時間が必要だ。特に人の生活を考えるとき、計画された都市は人間と乖離し非人間的であると評価される。効率性など、判断指標が人の感覚と合わないために生じる批判であるが、創り上げるものが便利さのみに焦点を合わせていたとすれば、気付けば様々な不都合が露呈していくことであろう。走りながら考えるのが良いのか、あるいは熟考の上で進めるのが良いのか、考え方はいろいろあるだろう。ただ近年の都市計画の世界では、全体計画だけではなく細部の多様性デザインに重要なポイントがあるという意見が主流である。

 これは、サスティナビリティをどれだけ重視するかという視点に立つものと考えることができる。サスティナブルは最近国連が打ち出したSDGs(持続可能な開発目標:SDGsとは? | JAPAN SDGs Action Platform | 外務省)でも目にするが、将来的な持続可能性を重視した考えである。資源、労働、その他ありとあらゆるものを、焼き畑農業的に食い尽くすのではなく、永続的に使える様にしようという考え。だが、経済グローバリズムが現在繰り広げるそれは、競争力強化のために人件費の安い場所を永遠に追い求めるものであったり、あるいは経済植民地化を確立することによる持続性の確保であったりする。グローバリズムは、新たな開発地を常に探し続けることを基本としており、その場所での最適化や維持を図る必要がない。その上で、全てを支配し利益を永続化するための競争を続けている。生産地を人件費の安さにより変えていくグローバルな企業スタイルは、ある意味焼き畑農業に近い。

 持続可能性は、誰の視点で見るかにより成否が変化する。投資家の視点で見る持続可能性と、そこに住む住民から見た持続可能性は異なるし、持続する生活レベルもまた違う。日本やアメリカは自らの生活水準の持続可能性を目指すかもしれないが、発展途上国からすれば現状維持では困るのである。結果的に、その間での落としどころを探ることが各所で行われ、それに不満があると紛争に発展する。現在の米中戦争も、お互いの価値観における持続可能性がぶつかり合っている結果と見ることができる。グローバル企業の多くはアメリカに起源を持つが、グローバル戦略を指向しているのはむしろ中国である。アメリカは国家としては最低国内のみでも成立する(資源、食料等)経済であるが、中国は今以上に発展を目指そうとすれば国内市場が弱いだけに海外への進出が不可避である。

 土地の区画のみを決めて、あとは自由に開発してよいと言った都市開発は、一時的に経済を活性化させることができるかもしれないが、多くの場合無秩序な都市空間が広がりその後に支障を生じさせる。駄目なら別の場所でと新たな場所で新規開発を行うとすれば、あたかも中国における鬼城と何も変わらない。また、計画された都市計画は緻密さや人間的配慮に欠け、無味乾燥的な空間を生み出しやすい。もちろん設計に携わる人たちがこうした問題を認識していない訳ではないが、かける時間と馴染ませる時間が不足するのである。不動産開発業者のもうけを大前提にすれば、こうした手法は許されるであろう。だが、それは都市として本当に良い形なのか。資本投下後の開発によるひずみを住民たちが多くの時間と手間をかけて修正しなければならない。自宅でも住みやすくするためには時間をかけてフィッティングしていくものだが、都市においてその負荷をどこまで低減できるかは問題とされるべきだと思う。

 そして現在のグローバリズムも、結果的に新たな貿易のつながりができることには意味があるが、企業収益を最前に押し出したスタイルは破壊的になりやすい。世界的な市場が広がる間にのみ成立するスタイルであり、その細部への配慮が十分ではないように見える。配慮などをしていたら国際競争に負けてしまうというのが意見であろうが、適正な競争を生み出すための何らかの規制は必ず必要になる。もちろん中国のように唯我独尊的な規制を許容するものではないが、そこに住む人たちのQOLに寄与しているかどうかを考えることは重要であろう。こうした事前調査を加えるとすれば、それは何らかのアセスメントとして設定可能である。新しい動きに既製が遅れるのは常であるが、リスク評価をするという意味において、グローバル事業アセスメントというような手法が生み出されるようなことはないだろうか。