Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

高齢就労

 日本の生産年齢人口の減少はかなりの速度で進行している(http://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/hokabunya/shakaihoshou/dl/07.pdf)。これが移民問題を動意づける最大の要因であるが、他方で異文化の摩擦を懸念して移民受け入れに踏み切れない世論も根強い。また、高齢者の再雇用の動きも企業サイドから積極的に動き始めているところもある(http://www.jmsc.co.jp/word/column/no92.htmlhttp://www.mof.go.jp/pri/research/conference/zk068_4.pdf)。その他にも女性の社会進出を促そうという試みも、実質的に社会で就労する人口の減少をカバーするための対策として行われている。

 政府は最近出生率1.8以上を目指す目標を立てたが、これに対する反発より表現を緩和するなど様々な動きが現れている(http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2014122202000121.html)。そもそも30年も前より人口減少は避けられない問題と認識されていたにもかかわらず、今になって数値目標を持ち出すこと自体が遅きに失していることは間違いないが、言い出せない雰囲気があったこともあるかもしれない。バブル崩壊以降に採用を控えて世代の断絶を抱えている企業と同じような状況にあるのは偶然の一致と呼んでよいのだろうか。
 そもそも、人口増を確保しようとすれば2.05程度の出生率を維持しなければならず1.8でも不足するという問題はあるものの、本格的な取組が行われるとすれば遅まきながらも喜びたい。ちなみに、全体的な出生率が低下している一番の原因は子育てが難しいことよりも結婚する人口が減少していることにあるので、その問題を如何に解決するかに注力してほしい(http://www3.nhk.or.jp/news/html/20141222/k10014170781000.html)。

 さて、ここでは若者の婚姻事情ではなく高齢者の社会参加について書いてみたい。何度か触れてきたが、高齢者が悠々自適な隠居生活を送るというステレオタイプな理想像が社会に蔓延しており、一方で現実に苦しい状況に置かれる一定数の高齢者をセーフティーネット(年金や生活保護、あるいは医療)で救い上げようとするのが現状の社会制度となっている。果たして悠々自適の生活を送ることができる高齢者がどれだけいるのかという疑問もあるが、それ以上に仕事等の義務から解放された高齢者は仮に資産を有していても幸せなのかという疑問も残る。
 世界旅行をして見分を広げたとして、その後はどこを目指すのであろうか。あるいは大学に入学して、知識を増やすことが本当に意味があるのだろうか。本来の目的は、勉強し・観光することとで刹那の時間を消費しているに過ぎないのではないか。得た情報を社会還元する人が今後どんどんと増えるとすれば喜ばしいことだが、果たして大部分の高齢者はそのような機会を自ら掴むことができるのだろうか。

 ステレオタイプに慣れ親しんだ私たちとしては、縁側でひなたぼっこをしながら余生を楽しむというほのぼのした情景を思い描くことは容易だが、これは知力・耐力の衰えを自覚した上で諦めの境地に達することを意味しているのではないかと考えずにはいられない。医療の発達した現代社会において、高齢者はかなりの年齢まで多少の病気等は抱えながらも元気に過ごせる可能性は高まっている。
 しかし、社会のシステムは予防医療という呼称はあるものの実践的な手法が確立しているとは言えず、また予防医療を行っていたとしても高齢者の生き甲斐まで生み出している訳ではない。死という絶対的な恐怖から少しでも距離を置くための安心を与えているに過ぎない。
 死が身近で無くなったが故の新たな未知がもたらす「死への恐怖」が無意識に増殖する素地のある現代、退職や子供達が巣立った後の人生をそれと直面しながら生きながらえることは果たして本当に幸福な老後と言えるのだろうか。

 積極的な幸せを見いだす方法とは言えないかも知れないが、高齢者の就労を促すシステムを国を挙げて作り出すことは、生産年齢人口の不足と補うのとは別の意味において非常に重要ではないかと感じている。働くことで余分な不安を抱かずに過ごせると言うことは、考えてみれば凄く幸せなことなのかも知れない。
 もちろん強制的な労働であっては意味がない。それは高齢者の精神と肉体をおそらく蝕むことになるだろう。しかし、自ら望み自分の余生を投入する楽しみを見つけられればそれに越したことはない。趣味に生きられる人は何の問題もない。しかし、私が思うには趣味が最大の満足となれる人はそれほど多くないのではないかと思ったりもする。
 他方で、自分のために働くという行為は実のところなかなか難しい。若い頃は友人たちと遊ぶためのお金を得るために、そして過程を持てば家族を食べさせるために、子供の進学のために、そして孫のために。私たちの多くは自分よりも自分の周りの誰かのために働いている。自分のためという部分も併せ持つがそれを表に出す人は少なく、仮に出してもエゴイスト呼ばわりされかねない。
 そして少なくとも表面上は誰かのために働くスタイルが一般化される(別にそれが悪いということではない)。

 高齢者が就労する場合に、どのような目的を得るかが大きな問題となろう。日々の適度な労働で健康を維持すると共に、金額としては大きくなくとも孫に小遣いあげる程度の心の余裕を持てる。これは別の社会問題である高齢者貧困問題とは異なる議論であって、高齢者が自ら生きるために働くという別の道筋もあるかもしれない。
 問題となるのは、若い頃のように長時間働くことができない肉知的・精神的な衰えに対応した労働を提供できるのかということがある。政府や自治体が主導すればそれだけで行政コストが発生する。それでは今一つ社会的意義が低いようにか感じている。
 一つには、社会が高齢者村的な場所を提供するという方法がある。CCRC(http://www.nikkeibp.co.jp/aging/article/innovator/20120613/01/01.html)という医療介護を含めた老後の生き方を提案する仕組みがあり、日本でも徐々に試みが広がり始めている。
 できればそこに就労というキーワードを組み込んだシステムが構築できないものだろうか。働くということは人の尊厳のかなり根幹的な部分を構成している。それを捨て去る人が多い社会でもあるが、やはり高齢であるからという理由で奪われる(自己存在の)喪失感を補うことこそが高齢化社会に一つの在り方ではないかと思っている。