Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

死の義務化

 死はいつ来るかわからないが生きている限りは必ず訪れる真理である。人々は死を恐れ、それを克服すべく知恵を絞り研究を重ね、それでも現在に至るまで恐怖から逃れる術を見いだせてはいない。ただ、死を消し去ることはできていないもののその過程で生み出された医療技術や公衆衛生技術は日本国民の寿命を大きく引き上げた。死という災厄を克服とまではいかないまでも、先延ばしにするというコントロールは私たちの将来に明るい光を与えたことは言うまでもない。
 ただ、それを単純には喜べない状況が高齢化社会の到来とともに近づいている。既に日本は世界きっての高齢社会国家であるが、この状況はさらに進行し2025〜2050年の間で一定の収束を見ることが予測されている。収束とは言っても状況が改善する訳ではなく、あくまで高齢化率の増大が止まるにすぎず日本という国家はいびつな年代構成のままやせ細っていく(人口減少が継続する)。
 それでも、高齢化の進展が停止すれば今後の若者の負担がこれ以上増大するという懸念は確かに払拭されるが、根本的な人口問題を何とかできているわけではない。ちなみに産業界がしきりに唱えている移民政策は短期的にはメリットがあったとしても、長期的には日本の人口減少問題を解決する訳ではない。移民として日本に来た人も歳は取る。結局定期的に受け入れ続けるという選択肢しかないが、日本社会はアメリカのようにそれを実現できるとは思わない。

 さて、日本は人口減少を受け入れるべきかどうかについては私は消極的な賛成の立場ではあるが、この論点は今回は論じない。それよりは喫緊の課題としての年金等の社会保障問題について「死」という視点から考えてみたい。
 最初にも触れたように、私たちは死の恐怖を克服すべく衛生・医療技術(衛生の方が効果は大きいと考える)を発展してきたが、最近の医療費の伸び(http://www.nikkei.com/article/DGXNASDC2400K_U2A820C1EA1000/)は
 (1)高齢者数の純粋な増加
 (2)高齢者の医療利用回数の増加
 (3)高度医療の進展による医療単価の上昇
の3つの要因に分けて考えることができる。(1)については高齢者の数が純粋に増加する限り防ぐことはできないが、(2)については予防医療の普及や社会システムの調整により抑制可能だとも考えられる。ただ、実は現在最も問題と考えられるのが(3)の医療費単価の上昇である。これは何も医者の給与(儲け)を増やしているというものではなく、単純に医療技術の進展により高価な医療を保険でカバーしているからと言っても良い。
 人情としては、肉親をあらゆる手を尽くして延命させたいと考えるのはわからなくもないが、若い人の場合はいざ知らず高齢者にその多くが投入されているとすれば少し考えさせられる部分がある。要するに高齢者に延命目的のみの高額医療を施すべきかどうかということだ。

 これについては昨年、麻生太郎財務大臣の延命治療拒否発言が論議を巻き起こしたのは覚えている方もいるだろう。実際人権を考えたときに、医療費抑制という議論で切り捨ててよいのかという大きな問題がある(http://diamond.jp/articles/-/38385)。当時は議論噴出だったと思うが、結局問題提起のみでその後の議論が深まりを見せた感じはない。
 この議論は、私たちが得た技術をコスト度外視て利用してもいだろうかという問題に帰着する。現状は、人権は全てに優先すると言った感じも強いのだが医療問題以外では、私たちは経済的範囲でのみ最高の技術を享受している。もちろんそれは生きるか死ぬかの瀬戸際ではないために、医療技術と同列に扱うのが良いとは私も思わないが、だからと言って医療技術は別個の存在と言い切れる自信もない。
 そこに多大なコストをかけるのであれば、毎年多くの自殺者を出している日本であるならばその費用を若い自殺者を減少させるために利用できないかと考えてしまうのだ。もちろん自殺者のうちで、経済的理由など政府の補助により社会復帰を果たせる可能性がある人がどの程度いるかは十分確認しているわけではないので偉そうなことが言えるものでもないが、仮に3万人の自殺者の10%が別の意味でのセーフティーネットにより抑制できるのであれば、そこに医療費の毎年の増大分程度は投入しても良いのではないかと思う。

 現状において、医療費を含めた社会保障費の増大は政府財政を苦しめている。その安定が早期に解決すべき問題であったとすれば、高齢者医療費の在り方を避けて通ることはできない。高齢者の尊厳とは何なのかを建前ではなく本音で議論すべきなのは間違いない。
 これは問題のある発言だと自覚しているが、同じ高度医療であっても年齢(あるいは心身衰弱の状況)に応じてその負担を変えるという考え方は導入できないものか。高齢者でも社会的に活躍している人は数多く存在し、単純な年齢では割り切れないことは理解した上での提案である。これは言い換えれば死の義務化と言ってもいいかもしれない。
 もちろん人は必ず死を迎える。一定年齢で死を迎えなければならないという義務ではない。ただ、例えば平均寿命を超えた人については特定の高度医療は自己負担率を上昇させるという手法は考えられると思うのだ。
 こんな話をせずに済めばそれに越したことはないと私も思う。ただ、現実的な解決方法として延命一筋の方法論ではなく、社会を存続させる死の適切なコントロールについて検討を始める必要があるのではないかと思うのだ。無論、死のコントロールはかなり危険な要素を孕んだ考え方であって容易にそれを導入できるとは思わないが、硬直した議論が社会保障問題を野放しにしてきたとすれば、思い切った考えも導入すべきではないだろうか。