Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

適正寿命

 日本の平均寿命が世界一だといつものようにニュースが流れる。それを聞くと、私たちは日本の公衆衛生状が良いことや医療技術の高さが想像でき、誇らしいような気になる。そう、平均寿命が長いということは日本の良さを示す一つの指標となっているのだ。地方のニュースでは100歳以上の高齢者が報道されたり、寿命世界一が取り上げられたり。個別の事象で考えると長寿は社会が望むべきものである。
 だが一方で年金問題から高齢者医療費問題まで、実は高齢化社会の進展が大きな問題となっている面があることも良く知っている。年々増加の一途をたどる医療費・年金等の福祉費用。それが改善されない限り、国の財政問題が解決することはないのではないかとさえ思う。人口動態を考えた時、先人が先食いした莫大な借金(政府の借金ではなく、積み立ての不足した年金や増え続ける医療費がそれ)を今後子孫が払っていく。

 さて、では日本人の寿命が短くなればどうなるのだろうか? もちろん、人生50年などと極端な短寿命化を目指すわけではないが、例えば70歳〜75歳程度を標準の寿命として設定すればどうだろうかということである。例えば、現在の日本の人口ピラミッドが示されている(http://www.stat.go.jp/data/nihon/g0402.htm)。腰高の壺とも呼称されるこの形は、社会を維持していく上ではかなり歪な状況にある。2014年の推計では、75歳以上人口が8人に1人とされている(http://www.huffingtonpost.jp/2014/09/14/population-ageing_n_5818272.html)。

 生産年齢人口の減少(http://www.keieiken.co.jp/pub/yamamoto/column/column_150601.html)に直面し、生産年齢人口(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E7%94%A3%E5%B9%B4%E9%BD%A2%E4%BA%BA%E5%8F%A3)の定義を変えよう(15歳から65歳→15歳から75歳)なんていう話も飛び出しているが、解釈論の変更では根本的な問題は解決しない。結局定年延長や、採雇用制度の法制化などがセットにならなければ絵に描いた餅に過ぎない。また、それ自体もある意味において問題の先送りでもある。
 他方、産業界では移民推進の声も大きいが、こちらも継続的に若い世代を受け入れ続けなければ人口動態を大きく変えることにはならず、一方で継続的に移民を受け入れることは日本と言う国の構成そのものの概念を変えなければならない。

 さて私がここで言いたいのは、長寿礼賛ではなく適正寿命礼賛の風潮が広まらないかと言うことである。例えば、病院で山のように行われている延命措置。もちろん必要な場合もあるとは思うが、親族が延命措置を止める決断ができないという面もあるように感じている。理由としては世間体もあるだろうし、親などに対する愛着もあろう。だが、適正な寿命で天寿を全うすることが社会的に当たり前を考えられれば、個人としての葛藤は多少軽減されると思う。
 適正寿命がどの程度かをここで判断するつもりはないが、現状の平均寿命よりも短く設定されたそれが社会的な合意事項となれば、医療費・年金等はおそらく今より減少するだろう。欧州などでは日本のような延命措置を取らないケースもあると伝え聞く。
 それは、個人ではなく社会全体が持続可能なシステムとして働くための知恵ではないか。無論、元気で長生きする人の寿命を削れというものではないし、そうした人の権利を限定するものでもない。長く元気で生きられるのであればそれは喜ばしいことである。

 だが私たちが考えなければならないのは、個人レベルでは望まれる長寿が、社会レベルでは必ずしも望むべきものとは限らないという事。現在の日本社会の問題は、個人レベルの長寿を期待する呪縛が社会全体を覆ってしまっていることではないだろうか。
 それを回避する方法の一つが、適正寿命と言う概念の導入ではないかと思うのだ。

 今後、社会福祉費用が今以上に増加することになれば、若者たちの租税・保険料負担がさらに増加するだろう。それは、実質的な可処分所得を減らすことにつながる。そして、婚姻や出産に抵抗を示す若者が増加すれば、負のスパイラルはさらに広がっていくことになる。
 私がここで書いているのは、法制度で縛るというものでも、姥捨て山を推奨するというものでもない。私たちの常識的に抱いている概念を変えることができないかということ。もちろん、それですべてが劇的に変わる筈もないが、実行できそうな策として一考の余地はないかと思うのだ。