Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

あけましておめでとうございます

 新年明けましておめでとうございます。皆様におかれましては、本年が幸多き年となりますことをお祈り申し上げます。

 昨年は春先以降彫刻にチャレンジしようとじたばたとしたのですが、結局模型以上に展開して実現することができず力不足を痛感しております。彫刻に限らず様々なチャレンジが大部分実を結ばなかったという意味で昨年はあまり良い年ではなかったはずなのですが、意外と心の中には不平不満や嫌な気持ちも残らず充実した感覚のみが柔らかく残っている気がしています。
 まだまだ自分に何が足りないかを客観的に分析できるには至っておりませんが、ある程度目処は付けているので今年はゆっくりと改善に努めていきたいと考えております。

 私は運命論は信じていないのですが、それでも物事の出来不出来にはタイミングというか機が熟しているかどうかが非常に大きな役割を果たしていると感じています。具体的に言えば、機が熟したチャレンジは紆余曲折はあるもののどのような流れになっても成功し、逆に機会が不適当なものについてはどれだけ努力しても大きな流れを変えるには至らないと言うことです。
 もちろん、前提条件として何かを成し遂げるために努力をすることがなければ何事も成し遂げ難いのは言うまでもありません。世の中にそうそう美味しい話が転がっている訳ではなく、仮に一度のラッキーがあってもそれが続くなどといううまい話はないでしょう。
 機を熟させるためには多くの場合不断の努力が必要とされることも当然ですが、どの段階で機が熟するのかはそれに関わる多くの人が何処でいけると認識するかにも関わっており、個人がどうこうできるものでは無いと言うことだと思っております。そう言う意味で運命論っぽくもあるのですが、根本にあるのは個人の努力だと考えます。

 成功を約束する契機として、本当に機が熟しているのかどうかはなかなか正確(客観的)に分析することは難しいのですが、私は機が熟していなかったことを人生を前向きに生きるための道具として利用したりしています。簡単に言えば自分に対する許しなのですが、チャレンジの失敗を自分の努力不足と認めながらも機が熟していないことに責任転嫁することが多いのです。
 別にこれが誰にでも推奨できる良い方法と思いお伝えしている訳ではありません。あくまで私個人が行っている一つの物事の考え方として勝手に書き綴っているものです。

 上手く行かないことを自分自身で納得するのは容易なことではありません。でも、それ以上にチャレンジを諦めてしまうことの方が自分自身にとっては損失ではないかと私は思っています。個人の才能や能力には違いがあり、私も含めて自分の力を過信しているケースも少なくないでしょう。
 過信(過大な自己評価)のみで努力をしない人は単なる痛い人ですが、努力していてもなかなか結果が出ない人にとって、自らの力不足を認めるというのは形式的にはできても心の奥底では難しものです。もちろんいつかは実を結ぶと信じて続けている訳ですから常に精進は続けなければなりませんが、人は努力の成果を何らかの形で実感したい生き物です。
 逆に言えば、自分が積み上げてきたものに意味があるのだと常に感じていたいと言っても良いです。無駄な努力をしたくないと言えば極端ですが、やっていることが間違っていないか常に不安の中に居ると言っても良いでしょう。賞を得るなど社会的に評価されることは、それを確信するための外的な指標として非常に重要です。

 明確な社会的評価を受けられない場合、人は不安に苛まれることがあります。果たして今のスタイルを続けていていいのだろうか、あるいは社会に評価されないのは何が問題なのだろうか、どうすれば名声を得ることができるようになるのだろうか。
 それこそが私は機だと思っています。いつ熟すかはわかりません。しかし、信じて誠実に突き詰めていけば必ずそれが熟す時は来るとも考えています。人によればすぐに社会的な評価を受ける人もいるでしょう。逆に言えば、死後に大きな評価を得た人も過去にいくらでもいます。評価を即物的な利得として考えるならば早い評価を受けることが目的になりますが、自分自身がやっていることの意義を自分自身が認めることを目指せるなら、評価を受ける時期に大きな意味はありません。
 結局のところ、誠実な努力を続けているのであれば自分を納得させて継続のための力を得ることが、何より重要ではないかと考えています。機を熟させるのは自分一人の力では成し遂げられません。大きな流れに一人で抗えども川の流れを変えることは叶いません。
 運命ではなく、自らの試みが実を結ぶ時を信じて努力と試行錯誤を続ける。安穏に埋没せず、同じものを作る事に安心せず、苦しい道を楽しく歩む。機が熟さない時には、それがまだ花開く時ではないのだと信じて自分を責めるのではなく時をやり過ごす。

 諦め、あるいは投げ遣りになれば、その時には道は塞がれます。諦めることの必要性を説いたこともありますが、諦めないための柔軟性もまた必要です。結局、人は最後自分自身の評価が全てであり、外的な評価はそれを補足するための杖のようなものでしかありません。
 機が熟せば何をしようが上手く行く。大した人生を歩んでいる訳ではありませんが、私の拙い経験から導き出した一つの真実は「機」に逆らわないことであり、「機」をどのように形作れるかに注意を配ることです。そして、失敗の責任を「機」に負わせることは意外と世の中を楽しく生きる上で重要なことではないかと考えています。

 正月早々生産的ではない話になってしまったかもしれませんが、運命ではない何かを私は社会の大きな流れが生み出す「機」に見いだしているというお話しでした。ちなみに、一度機に乗じられたからといってそれが全てでもなく、結局は幾度もそのチャレンジをし続けることに最も意味があるのだと思います。