Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

ブラックの隙間

 ブラック企業という呼称が社会的認知を得て、一般用語として頻繁に用いられるようになってきた。確かに過酷な労働条件の職場が存在するのは間違いない。痛ましい事件もニュースとなり、ワタミなどの一部企業は名指しで非難されている。もちろん企業側には企業側の論理があり、雇用される側にもそれなりの論理が存在する。両者の意見は現時点において全く相いれるものではなく、話は平行線のままで進展はない。
 単純に、雇用される側の状況のみに目を向けたならば、おそらく辛く厳しい状況が想起されるのであろうが、その視点にはなぜそのような労働条件であったにもかかわらず辞めなかったのかという疑問も残る。いや、そもそもなぜそのような企業に就職するのかと問われることもあるかもしれない。あるいは、能力のある人はブラックには分類されない企業に就職しているという声もあるだろう。
 辞められない理由としては、責任感が強かったり自己主張ができないタイプであったりなどの理由があるのはわかっている。社交性が高ければ、より良い場所に転職することも可能なのかもしれないが、社会の皆が同じような性格や行動力を持っているわけではない。そして多くの場合、ブラックと呼称される企業から脱出したとしても、次に見つかる場所も大して変わらないという諦めが含まれているのだと思う。

 ただ、雇用者側の観点からみればまた異なる光景が見える。最初からブラックを目指す企業も一部にはあるかもしれないが、多くの場合には自社をブラック企業だとは認めないであろう。そもそもブラック企業と呼ばれる定義そのものが曖昧である。結果的にではあるが、私は人員を使い捨てにする(離職率が異様に高い)企業こそがブラックではないかと思うが、別にオーソライズされた考え方ではない。一部では経営者の経歴誇張だとか、感動・成長・夢や希望ばかりを語っているといった具体的な見分け方も提示されているようだが(http://www.slideshare.net/bktproject/ss-28540065)、それが知られわたればまた新しく形を変えるだけなので、オレオレ詐欺と同じようにこうした分類も普遍的ではない。
 単純に言えば安い給料で長時間労働が課せられる企業だとなるのだが、実際日本にはこうした中小零細企業はごまんと存在する。むしろパートタイムで働く人の方が時間単価が高いなんて笑い話も少なくない。別に企業としても余裕のある経営ができれば問題ないが、それが難しくなっていることがブラックという言葉の広がりを助長する。
 日本が高度成長時代を経てきたことにより雇用される者の給与は現在のように高くなったが、これは日本が世界に経済の戦いで打ち勝ってきた証でもある。逆に言えば、今それが負けているのであれば同じ様な水準の給与を取るのは分不相応と言うことにもなる。そもそも、一定の低い給与水準でかつ労働条件が比較的厳しかったとしても、年功序列と終身雇用により未来な形を想像できる時は自らで生き方を納得できる面もあった。今問題となるのは、こうした終身雇用型の企業経営システムが時代遅れになってしまったことである。

 では大企業はどうかと言えば、給与は確かに中小企業よりも高いのだが、同時に過大なノルマや大きな残業が課せられる職場もやはり多い。結局のところ文句のでない職場というのは、給与の高低や仕事の厳しさではなく仕事に対する好き嫌いにより決まる。アニメーターなどの薄給はよく知られるところではあるが、その小さな事務所をブラック企業と呼ぶことはあまりない(自虐的に言う場合はある)。
 私は、給与・長期の雇用・将来独立への道筋のいずれかが用意されていたとすれば、その企業はブラック企業と呼ぶには必ずしもあたらないと思う。昇進も給与や長期雇用に含まれる。もちろんブラック企業と呼ばれるところでも、幹部職員募集とか店長候補という甘い文句で人を引き付けるので、あたかも長期の雇用や独立への道筋があるように錯覚してしまう場合もあるだろう。ただ、おそらく多くの場合にはほんの小さな可能性しかそこにはない。
 ブラックとは呼べない企業でも被雇用者は利用(活用)される。しかし、従業員の成長は企業の利益に資する面も少なくないので、結果として両者は共存関係を構築していく。この共存関係が給与に反映され、長期の雇用関係を確立し、あるいは将来への布石となる。ただ、ブラック企業は共存関係を謳いながら実質的に従業員からの搾取(時間と労働力)を行う。被雇用者である従業員には、将来への布石が残されない。

 ブラック企業という社会現象が蔓延している原因は、雇用側にも被雇用側にも認識に問題があるように思う。雇用者側は、現在の雇用を維持していることで免責されているという認識が強いが、雇用される側が最も欲しいのは将来への布石なのだ。それを言葉や儚い夢で誤魔化すことは、ブラックという存在を生み出す基盤となる。
 一方で雇用される側の認識についても、既に年功序列は社会の趨勢ではなくなったことを意識しなければならない。自らの将来は基本的に自らつかみ取らなければならない。ブラックを選択しブラックに潰されるのも、自らの将来に対する考え方が不十分であるという結果であるとの認識を持つべきであろう。ブラック企業というレッテルに責任を押しつけたとしても、実のところ自分の境遇はそう簡単には変わらない。そして、本当に社会的な害悪のようなブラック企業に遭遇したならば、早急に手を切るべきであろう。
 現状におけるブラック企業ムーブメントは、この両者の認識の狭間に存在している。