Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

人ならざるものとの競合

 まだ本格復帰には程遠い状況ではありますが、たまには更新を。しかし、世の中では次々と様々な出来事が発生していますね。一つ一つに焦点を合わせて考えるとどれも大問題に見えてくるのですが、全体を俯瞰して見れば意外とそれほどでもないようにも思えてくる。社会をバランスよく見るというのは実に難しいことの様で。

 さて、コンピュータの発達は間違いなく私達の生活全般を便利にしてきたが、同時にそれにより生み出された負の側面も散見される。負の側面たる問題点は、様々な例示により取り上げられ(言論空間などにて)語られている。具体例を挙げればきりがないが、スマホやネットによる中毒性といった生活習慣上の問題もあれば、効率化が生み出す人員削減のマイナス面も存在する。ロボットが人間の代わりに仕事する夢の未来がわずか数十年前には想像されてきたが、まさに当時の想像の世界が実現しつつある現在を振り返ってみれば、実のところ夢だけではない苦い現実がいくつも思い当たる。
 ただ、だからと言ってコンピュータを全否定するような勢力が拡大している訳でもない。かつてコンピュータが人類を支配・管理する小説や映画が数多く作られてきたが、それを現時点で真剣に心配する人は少数派である。私たちの気付けぬところで情報化の進展は現在も続いているのであろうが、機械に人類が支配される状況をリアリティを持って感じることはできない。これは、支配・被支配という観点が強調されているからではないかと思う。前述のロボットが人間の代わりに働き、人間が労働から解き放たれる夢のようなイメージは、少なくとも全ての人間がロボットを支配下に置いているという前提に基づく。
 その上で、便利さはロボットを支配していようがいなかろうが享受できる。私たちが消費者という立場を維持できるのであれば。

 さて、少々話の軸を変えよう。企業や社会が一定の生産性向上を必要とするのは事実である。個人でも常に何らかの能力の進歩を続けなければ、進歩していく社会に置いてけぼりにされる。置いて行かれたからと言って問題ないと開き直ることもできるが、最低限話題に同調することは困難になるだろうし、当たり前のようにできない事柄が増えていく。それが決定的な不利益に繋がるまでの期間が予想よりも短いと考えた方が良いかも知れない。ましてや世界を相手に競争をすることを考えれば、国内の安定した競争どころではない様々な要因を含めたシビアな競争に曝される。こうした競争は、時にイーブンペースの着実な生産性向上ですら賄いきれないほどの進歩を強要する。
 生き残りをかけて抗った結果として、企業寿命はこうした通過儀礼により短くなり続ける。あるいはわずか十数年で実質的に別物のように形態を大きく変えなければならなくなる(企業名が存続しても)。伝統は変わり続けることで保たれるということを知っている人もいるだろうが、その変化の度合いがどんどんと大きくなり過ぎた時何が残るのであろうか。変化に上手く付いていけない伝統は、如何に保護しようが存在価値を減じ続ける。伝統文化ではなく企業形態の変化について考える時、雇用されるものからすれば企業の存続性(安定性)という意味で一定の意味があるだろう。ただ、だからと言って企業の変化に伴い雇用されるべき専門性が変わることは、当然のことながら労働者の被雇用安定性を必ずしも保証しない。

 世界的競争が当たり前のように語られる時代ではあるが、そもそも私たちは競争が当たり前の社会に生きなければならないだろうか。最初にも触れたロボットが人の代わりに仕事を引き受ける夢の未来像は、仕事をしなくても良いという生活上のタスクからの開放ではなく、ロボットを支配することで生まれる競争の回避に大きなる意味があった。
 科学技術の進歩は、人々を幸せにすることを目的として推し進められる。消費者側としての幸福は技術進歩により成し遂げられたと考えることもできよう。少なくとも、医療技術や薬の進歩は人類の長寿命化に寄与しており、高齢化という問題を内在しながらも人々を幸せにしているということに間違いはない。
 交通手段や通信手段の発展が生み出した様々な利便性が、人々の知的好奇心を満足させたというのも厳然たる事実である。発展途上国が幸せを追い求めるのは、先進国のこうした物質的・知識的を目指してのものであることが多い。
 確かに、幸せという感情的な反応は必ずしも物質的な豊かさによりもたらされるわけではない。金持ちが必ずしも幸せとは限らず、貧乏が不幸せの主因となるとは限らない。それは心の豊かさが計測指標であり、他者から視認できる外形では評価しきれないものであるからだ。
 とは言え、では貧乏が幸せを呼び込むかと問われればこれもまた違う。多くの場合には貧困は不幸を呼び寄せる。ワーキングプアやシングルマザーの困窮がメディアに報じられて久しいが、心の豊かさでそれを補えていると考える人は少ないであろう。両者は結局のところ切り離して考えられる問題ではない。

 世界間の貿易競争は労働者の賃金引下げ圧力を強化し、時には発展途上国の安い賃金との競争であったり生産性向上のための機械との競争であったり、労働者の地位(雇用機会と賃金)を脅かす状況は日に日に圧力を増している。もちろん、ニッチを見出しあるいはオリジナリティの高さにより一定以上の賃金を確保できる企業(あるいは個人)もあるだろうが、こうした存在はほとんどの場合においてメジャーにはなり得ない。あるいはITや安さ便利さを売りにした新興企業もこれまた存在するが、労働者の立場からすれば決して諸手を挙げて喜べない状況がある。
 政府やマスコミはこうした環境の変化には口をつぐみ、景気循環の一部としての賃金上昇を天下を取ったかの如く取り上げるが、それがこれまでの抑圧されてきた反動に過ぎないとは報道しない。リバウンドは、基本的に元の高さには戻らないのである。

 主に環境面からではあるが、サスティナブル(持続性)という言葉が用いられるようになって久しいが、企業経営あるいは産業育成という点ではむしろ新陳代謝が常に求められている。既存勢力がベンチャーを邪魔するだとか、新しい発想が生まれてこないという意見は確かに正しい。血の入れ替えは、閉鎖社会であればあるほどに大きな意味を持つ。
 しかし、頻繁かつ永遠の血の入れ替えが必ずしも真かと問われれば、これもまた「否」と応えなければならないだろう。ものには限度があり、適度なペースが存在する。効率化や利益追求の究極の形が、頻繁なスクラップアンドビルドであった時、本当に社会として求めなければならない姿とは何なのであろうか。

 グローバル化も、異文化交流も、人と人の触れ合いも、無いよりは進んだ方が良いのは間違いない。ただ、それは常に無制限にではない。社会の効率化も、技術革新も必要であるが、これもその速度が自由自在である訳でもない。少なくとも、社会が適応できる速度に適ってこそ社会に幸せを運ぶことができる。
 今、被雇用者の立場は非常に危ういところにいる。移民などのシステムを導入しなければ、国内的な賃金競争は世界と比べれば多少は穏やかになるだろう。ただ、その時には労働者は真剣にロボットと雇用機会を争うことになるのだと思う。もちろん、コモディティに近い立場ほどにその可能性は高くなる。
 進歩の量のみではなく速度についても、きちんと議論する時期に来ているように私は思う。