Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

執着を忘れた世界

 まずは、韓国旅客船事故の犠牲者の方々のご冥福をお祈りするとともに、少しでも可能性があるならば生存者が救助されることを願ってやみません。


 最近特に感じることなのだが、世の中では執着心の薄い人の方が高く評価されているのではないかという気がしている。「それがどうした?」という声もあるだろうし、はたまた指摘する状況自体が私の思い違いであれば話はそれで終わりとなる。
 ただこの執着心の薄さという状況は、社会において「欲」を一方的に悪いものとして扱う傾向が強まっている結果ではないかと考えており、その点について少々懸念を抱いている。もちろん、社会が傾向として「欲」を抑制する方向にあると捉えるとすれば、原因として最も容易に思いつくのは長らく続いた(今も十分脱しえていない)デフレ不況だ。その結果として収入の増加が見込めない(あるは雇用機会を失い大幅な減少が生じる)などの状況下において、欲剥き出しの行動は場にそぐわないという感覚は私にも確かに存在する。
 また、バブル崩壊後の長い期間のうちに幾度となく消費拡大の可能性にチャレンジし、そしてあまたの企業がチャレンジに失敗してきた歴史もある。企業のみならずこうしたポストバブルのトラウマが日本人全体から消えておらず、またバブル後の世代にはそれが常識として刷り込まれているという現実もある。
 とは言え、バブルとそれ以降の不況に全ての理由を預けてしまうことは、大事な何かを見逃すことになるのではないかという懸念を抱かずにはいられない。むしろ、私がそう感じているからこそ今回のエントリを立ち上げてみた。

 私がここで言う「欲」の抑制を示す例は、既に頻繁にニュースの俎上に載せられている。多くの人が報道などを通じて知っているであろう、若者たちの車離れなどが典型例として語られることも多い。現状の給与が低いと言うのが車離れの最大の理由として挙げられるし、若者たちのネット上の声などもそれを肯定するものは多いようである。あるいは将来的な夢を抱けないからこそ保守的になって、その心理が車などを購入するのを控えさせるという面もあるだろう。
 ただ、かつて若者が貧乏だった時代と比較すれば給与の低さについては必ずしも当たらない。また世の中の遊びが増え趣味の幅が広がったという声もあるが、かつて車を求めたような積極さが他の分野に存在するのかと考えると、車を持ちたくない理由はやや消極的なものではないかと感じている。

 例えば、自動車・バイク離れはスリルやスピード(あるいは虚栄心)に魅力を感じにくくなっているというのもあるだろう。それは逆に言えば社会が評価しなくなったと言うことの裏返しとも言えるのではないか。
 もちろん将来的な不安が先に立つために、買わなくなるという理由は至極分かり易いものではあるのだが、若者が本当に将来をどこまで具体的に悲観してそう判断するのかという面いついては、今一つ私の琴線には響かない。なんとなくそうしたムードが漂っているというのはわからなくもないが、それは何を原因としているのであろうか。

 別のケースを挙げてみても、バブル期に全盛を誇ったブランド信仰も絶滅したわけではないものの、これまた現状ではかなり限定的である。こちらも収入の低さが主因かも知れないし、偶像崇拝の趣が変わったというのであれば文化的な進歩かも知れない。ただ、こちらのケースでも必ずしも国民の精神的な成長が理由と思えるほどの何かを感じられる訳でもない。社会の雰囲気として、高級ブランド品を手に入れることがステイタスを直接的に想起させにくくなっているというのもあるだろう。

 こうした中、景気回復を目指して政府や産業界はアベノミクスなどこぞって消費拡大を謳うが、人口減少が謳われるこの時代において量で消費をカバーできると考えるのはあまりにも無謀な話でもある。仮に数は少なくともより高級な品物が売れるというのが理想であって、一部では長年の反動として動きも存在するが全体に力強く広がっているというものでもない。
 要するに、今アジア各地で見られるような高度成長期のごとき熱気はそこには見えてこない。このような状態が社会の主流となり始めたのはデフレ突入直後よりは少し後のことだと思うが、いつ頃からなのだろうか。

 消費とは同じものではないが、結婚がなかなか進まないことも同様の文脈で捉えても良いのかもしれないと思っている。結婚と「欲」は関係ないと見ることも出来ようし、決めつけてしまうことはできないが、それでも所有欲と結構深い結びつきがあるのではないか。恋愛という打算と関係ない感情の世界ではあるが、欲望も同じような情動による行為と考えるからでもある。
 確かにかつては家同士の関係性という文脈での結婚が主流であって、愛情という価値の評価が現在より低かった。離婚の増大(結婚制度の崩壊)は社会が結婚における愛情の価値を高めた結果(http://www.bllackz.com/2014/04/blog-post_12.html)だという意見には確かに頷けるところも多いが、相対的な結婚数の低下は恋愛信奉によるとする考えのみでは言い尽くせない。

 高価な物品を容易に諦め、あるいは理想とする生活に興味ないふりをして現実を仕方ないと受け入れる。恋愛にすら消極的になりがちなこの時代、身の丈に合っているという評価のみでいいのだろうか。確かに夢を見るのではなく現実を受け入れることは正しい行為であると言えるのだが、だからと言って全く夢を見ない(フリをする)という事とはまた違う。現実を見定めた上でそれに立脚して夢を見ることこそが社会の大きなパワーとなる。
 要するに、夢を現実と乖離したものとは考えず、夢と現実との間の溝をリアルな存在として認識したうえで、それを埋める行為に努力する。これが最も求められるものであると私は考える。

 欲とは少し異なる内容になるが別の問題(社会現象)として、現実を無視した夢に浮遊する人が増加していることもあろう。夢に浮遊と言って良いのかは微妙ではあるが、現実逃避といえるような状況はNEET(Not in Education,Employment or Training:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%88)と既に定義されたりもしているが、ほんの一部ではあるが夢に浮遊できずに絶望に打ちひしがれて自暴自虐的に犯罪に走るケースもいくつか見かける(あくまでそれが増加しているわけではない)。
 彼らが真に社会を憎み続けているのかどうかは正直なところ判らないし、彼ら自身も正確には理解していないのではないかと思う。ただ、単に行き場所のわからない焦燥感を社会に向けて発散しているだけであれば、これはこ子供の駄々と何も変わらない。唯一、子供にはできなかった凶悪な行為を働けるという違いのみである。

 最初に社会全体として執着心が薄まっているように感じている旨を書いた。ただ、執着心をそのまま「欲」とイコールとするのは必ずしも正しくないとは思う。それでも、やはりこの両者に深い関わりがあるのも事実だと考える。欲望には生理的なものもあれば社会的なものもある。どちらにしても私たちを突き動かす衝動として大きな役割を果たしている。
 私はエゴイズムが社会を大きく動かす一つの原動力(良い面でも悪い面でも)だと考えている。エゴイズムの縮小は社会内の安定を高めるが、同時に外的な抵抗力を弱める側面も持っている。あたかも、無菌室で育った人間が様々な病原菌に対する抵抗力を保持しないように、社会のストレスを低下させることは局所最適であって全体最適化とは限らない。

 極端な例で申し訳ないし、またストーカー礼賛しようというつもりも更々ないのだが、執着心(粘り)というものが日本という国から徐々に失われようとしているのだとすれば少々悲しい気持ちになる。いや、おそらく粘り自体が消えている訳では決してないのだろうが、ただそれを受け入れる雰囲気が社会から徐々に失われつつあるように感じる。
 伝統的な日本の美徳の一つとして「潔し」というものがある。これは単純に執着心が薄いと言うことではなく信じたものと添い遂げると言った良い意味で用いられるものではあるが、反面「言い訳をしない」などとした結果への執着心を否定する面も持っているように感じる。
 スポーツなどの面では、闘争心も執着心もまだまだ肯定的に捉えられているが、精神論の地位の低下は着実に進んでいる。確かに、安定したメンタルトレーニングにより安定した成果を出すことは非常に重要であり、統計や分析によらない前近代的な精神論には私も違和感を抱く。
 ただ、それでもオリンピックなどで時折見受けられる中国や韓国の執念としか言えないような力の発揮を見る時、そこに何か根源的な何かの存在を感じてしまう。

 ストーカーについては、私も酷い例を聞くにその取締りの重要性を強く感じるのだが、この執着する対象についての認識についての興味が存在する。執着心というのは、その対象のことを深く知りたいという欲望が関係する。本来、自分自身や自分の成果についての執着をすべきところを、自分を棚に上げて他者や対象物に執着しているという状況がある。
 実は社会全般に不足しているのは、こうした執着心(あるいは欲望)を上手くコントロールするための方法論ではないのだろうか。欲望の暴発を畏れて欲望そのものを抑え込もうという動きが強く存在し、そのことにより社会の安定が得られるがゆえに手法は肯定される。
 しかし、欲望を抑え込む(忌避する)習慣が継続的に刷り込まれるが故に、自己の欲望を抑える外圧が他者への衝動的な行動として発散する。この流れは、実のところいじめもストーカーもそれほど変わらない。

 ところが、老成しつつある日本社会はこうした状況を正しく認識していない。形式上、喧嘩などは減少し社会における凶悪事件も減少している。一時的な安定を社会にもたらすことになっているが、それは果たして恒久的でかつ未来の日本にとって必ずしも良いことなのだろうか。
 私には、必死に無菌室状態を創ろうとしているように見えて仕方がない。子供や孫を安全な状況に置きたいという気持ちは非常によく理解できるが、その個別の気持ちが必ずしも日本という国家や社会の未来にとってベストの選択肢とは言えないのではないか。
 制度(仕組み)的な完璧さを目指し過ぎて、若者たちの逃げ場(選択肢や自由度)を狭めていくことは、実は未来を殺しているのではないかと考えてしまう。