Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

平和の形は一つではない

 私がリベラルな言論人の主張に今一つ共感できない最大のポイントは、その論理構成の中で平和を信仰化していることではないかと思っている。もちろん、私は平和を追い求めていないと言っている訳ではない。以前から繰り返し書いているように、日本という国家の繁栄や安寧は世界が平和であるからこそ維持できると思っており、そのためには日本は平和を維持し続けなければならないと強く思う。
 ただし、平和は唱えていれば与えられるものではない。耐えていれば訪れるものでもない。妥協により得られるものでもない。対話により必ず到達できる保証もない。それを獲得するために不断の努力を続けなければならないものである。本末転倒を言われかねないかもしれないが、大きな平和を得るための小さな争いすらあっても全く不思議ではない。
 例えば、内田樹(http://blog.tatsuru.com/)氏の文章はいつも見事なものだと感心しており、その読ませる文章の中身だけでなく文章の構成力には多大な尊敬の念を抱いている。とは言え、社会に対する姿勢や理解について立ち位置は私とおそらくかなり異なる。同じように平和を希求しているはずなのに、なぜここまでスタイルや考え方が違ってしまうのか。あくまで私なりの推量なので正しいかどうかはわからないが思うところを書いてみたい。

 リベラルな人たち(ここでは極左を含まない)が言う平和については、常々それそのものが目的ではなくその平和に至るプロセスおよび方法論が目的ではないかと感じている。要するに平和という誰もが否定できないものを持ち出すことで、自分たちが考える(納得できる)手法を正当化しようという感じなのだ。
 もちろん、手法はともかくそれが正しく納得できるものであれば問題ないと思うのだが、常にそこには違和感が付きまとう。本来、目的である平和を追求するためには、取り得るあらゆる方法論を分析し検討し、試行錯誤を重ねながら推し進めるのが普通ではないかと私は考える。
 ところが、多くの場合彼らが主張する方法論は既に決まっている。憲法第9条の件でもそうだが、方法論が結果ありきではないかと感じずにはいられない。もちろん、私などよりもずっと深くそれを考えて至ったものだと信じたいが、それにしても平和に至る道筋を制限しすぎなのではないだろうか。

 そこで考えるのは、平和という概念についての違いである。私は、平和を求めるとは言ってもその平和にもいくつものフェーズや形態があって然るべきだと考えている。確かにそれは理想の姿ではないかも知れないが、素晴らしい状況の平和が理想だろうが現在の中国のように矛盾に満ちた平和も存在する。現状の中国における平和が良いと言うつもりはないのだが、少なくとも大規模な動乱は存在せず、山ほどの問題を抱えながらも人々の生活は少しずつ向上しているのも事実である。
 いろいろと意見もあろうが、レベルの低い平和を少しでも良いものに変えていくと言うことが世界中で常に行われている。それは日本だけではなく中国でも同じことだが、どこでも同じように歩みは遅く理想にはほど遠い。それでも、刻々と変わる社会や世界の情勢を考える時、理想形としての特定の平和が常にフィットするとは考えにくい。
 平和の形も経済と同様に変化し続けると思う。もちろんその変化が緩やかであることが目指すべきところではあるが、緩やかさで言うならば今の日本も世界的にはかなり高いレベルにある。

 不断の努力を続けなければならないのは言うまでもないことだが、社会状況が変化するのと同じように対処方法も刻々と変化し続ける。理想形は理想として意味があると思うものの、理想を追い求めるのみでは現実の変化には対処できない。平和の形も環境や条件により最も適した形は常に変化するのである。平和は単一ではない。その質を向上させることには異論はないが、特定の型に当てはめようとしても矛盾が生じ歪が生まれる。
 さて、リベラルの論調は正直言って柔軟性にかなり欠けると感じている。それは先にも触れたが、手段あるいは方法を目的化しているからだと思っている。要するに自ら自由度や幅広い可能性を捨て去っているのではないかと言うことだ。私だって戦争はすべきではないと思うし、できる限りのトラブルも避けたいとは思う。
 ただ、取るべき手法はできる限り多様なものを持っておく必要があるし、可能性の論議についてはタブーは作りたくない。本来、平和が目的であればそこに至る過程に大きな注文を付けることは、目的に到達する確率を引き下げることではないかと思うのだ。

 あくまで推論ではあるが、彼らが最も主張したいことは実は平和ではなくて自らの思想や手法の正当性なのではないかと思う。だとすれば、平和はそこでは(観念的な)道具になっている。道具として用いられる平和は、果たして生きた平和なのだろうか。幸せな夫婦の形が千差万別あるように、平和の形も様々に存在する。そのどれが良いと決めつけるのではなく、多くの人が納得できる形を常に追い求めていくのが現実的ではないかと思う。