Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

中途半端のススメ

 「何事に対しても中途半端だなぁ。」という評価は、どちらかと言えばポジティブな場面や人には用いられることがない。むしろ、かなりネガティブなイメージを与える方であろう。確かに、どんなことも途中で放り投げてしまう中途半端さは、社会を生きていく上において決して誉められた行動ではない。そして親たちが我が子を躾ける時には、どちらかといえば中途半端を許容しない方も多いだろう。
 この何事も最後までやり遂げるというスタイルは、トレーニング段階においては非常に正しい方法論だと思う。物事を中途半端に放り投げることが当たり前と思ってしまえば、社会に出てから苦労するのは間違いない。もちろん、学校でも先生にきつく指導され同級生からも疎んじられることもあるだろう。宿題は最後までやる。掃除をきちんと行う。これらは多くの人たちが当然の生活習慣として身に付ける。

 しかし、私はトレーニングとは別の面での中途半端さを推奨してみたい。物事を最後まで行うのは、一定の結果がはっきりと出るタスクにおいては望ましい。だから、仕事において厳密さや正確性を要求される分野では何よりも必要な能力であり資質である。しかし、仕事というのは必ずしもそれのみで構成されるわけではない。
 同じ作業を繰り返す単純労働はIT化や機械化が進むほどに衰退し、管理的な業務であっても臨機応変な対応や創造性が求められる。ましてや新しい事業に挑戦する時などは創造性は必須の要素となる。社会において人間が求められるのは、安い単価で働くとなるか高い単価で創造性の求められる職種に就くかの二極化が進んでいる。
 とは言え、創造性を発揮する時に中途半端が重要になるという訳ではない。もちろんどんなアイデアを捻り出しブラッシュアップっしていく過程においても物事を突き詰めていくという行為は非常に重要である。それはすなわち中途半端に投げ出さないことでもあり、中途半端にはしないことが成功への一本道であることは私も感じている。
 しかし、そのアイデアの引き出しを持ち続けていく上では、言葉の意味は違うかもしれないが中途半端さを維持することが重要であると考える。

 私たちは、昔から結論を出す(=最後まで結果を求める)ことを学校でも社会でもトレーニングしてきた。勉強や一定ルーチンの作業であれば別に問題ないが、結果が出る時期もわからない成功に至る道筋もわからない状況では、ありとあらゆる可能性を排除しないことが重要となる。所謂レッテル貼りを行うことで、様々な事象や要素を自分が安心できるポストに押し込める。その結果、なるべく労力の少ない合理的なルートを見つけ出すことができると教えられている。
 現代の合理化ビジネススタイルでは、経営コンサルタントは少しでも企業の無駄を省こうとして改善計画を提案するであろう。そこに感覚的に疑問を抱く人も多く改善計画はすんなりとは通らない。多くの場合、企業側の取り組みが不十分だと片づけられるのであろうが、そうなってしまう理由は見ているスパンの違いのことも少なくない。

 私たちは、現状をより良く理解し判断するために物事をある程度の類型にはめ込む。これは、中途半端を許さずに無理やり結論付けるのと似ている。もちろん、「先送り」というこれもマスコミによりネガティブなイメージが固定化されてしまった言葉があるが、先送りではなく時機を待つと考えればわかりやすい。多くの不確定な事項を抱えると、どうしても個人としての処理能力に限界が出るから一定の割りきりは必要である。しかし、その場合であってもそこで決めたことを再考できるほどの柔軟性やキャパシティを持っている方が望ましい。
 社会が複雑化すればするほど、多様な考えや新しい概念が必要となることも少なくない。その時、割りきりにより手持ちの引き出しが少ないことが本当に望ましいのであろうか。

 中途半端で止めないことは一時的に重要である。放り投げるのは最もよくない。しかし、中途半端なまま(結論付けずに)頭の中にそれを保持し続けられる甲斐性があることこそが、実は一番望ましいのではないかと思うのだ。もっとも、これは結論をつけていくよりも難しく大変なことでもある。
 よく、何事も結論付けなければ我慢できない人がいる。短期的にはその方がメリットがあったとしても、長期的視点に立てばその優位性は絶対ではない。