Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

結果を出さない生き方

 人は結論が近づけば近づくほどに早く片付けてしまいたい衝動に駆られる。しかし、その結論自体は多くの場合一時的な決着であって節目でしかない。もちろん節目も重要ではあるが、それでも最終的な成果ではない。例えばマラソンは個々のレースも重要ではあるが、最終的なチャレンジはオリンピックであったり世界記録であったりする。個々のレースは、小さな結論でもあるが同時に大きなストーリーにおける通過点でもある。一般的に言われる結果とは、多くの場合においてある瞬間の断片を切り取ったものに過ぎない。短い時間軸で捉えたならば確かにそれは結果であり、それは成果であるだろう。それでも人生という長いスパンで考えてみれば、思っている程には一つ一つのイベントには決定的な価値が無く、やはり途中経過だという方が相応しい。私達は短い人生を数多くの結果の積み重ねとして生きているが、同時に大きな流れの中で一つ一つの事象を乗り越えながら生きている訳でもある。個々の結果に価値がない訳ではないが、迎えるまでは高くそびえ立つ山であったとしても、越えてしまえばいくらでも転がっているたわいもないものに成り下がる。
 だとしても、こうした中途時点の評価も所属する社会においては一定の価値を持つ。なぜなら社会とは一人だけの人生として完結するものではなく多く人たちの人生の相互作用により構成されているからであろう。私達は常にお互いに評価の対象とされ、あるいは人を評価し続けることで社会の中における相対的な差異(あるいは立場)を認識しようとするからである。とは言え、個人としての自己評価はこうしたしがらみに惑わされずに終に行えばよいのだが、これまたずいぶんと先の話になる。そこまで待ちきれない私達は、中間査定という評価の連続をそれまでの総括と捉えているのである。

 こつこつと評価を積み上げることは一つの立派な生き方だと思うし、それは単純な成果だけでなく信用という大きな別の成果を掴み取るに値するものだ。しかし、他方大きな目標を追いかけて身近な評価など気にすることなく精を出す生き方もある。一歩間違えれば単なる博徒として扱われかねないが、それでも人生を賭ける価値のあるチャレンジはやはり存在する。いや、むしろ私達はそれを探して生きているというのが本当の姿ではないか。多くの人は、全てを打ち込めるものを求めるが、それを見出せずあるいは妥協して人生を歩んでいく。妥協を拒むものは、現実社会では変わり者としてのレッテルを貼られることも少なくない。むしろ、そのような評価を社会から受けない者はどこかで社会に迎合していると言っても良いかも知れない。
 人生を賭けてチャレンジするとは言えど、その追い求めるものの難しさはケースバイケースだし、結果の出し方も与えられる環境によって異なるであろう。エントリのタイトルで「結果を出さない」と書いたが、正確には結果に拘りすぎないという方が適切であろう。拘りは必要だがそれは結果としての他者からの評価ではなく、自分自身の認識としての拘りである方が望ましい。要するに大きな目的へ向かってのマイルストーンを自ら確認するためのきっかけとして、個別の結果を評価するというものだ。

 とは言え、人生の目的を若くして固定できる人などいくらもいないのも事実である。漠然とした希望のみを有し、日々生きている身としては何らかの成果がほしくもなる。そしてその成果の社会的評価を受けてその後の進路を決定しようとすることは多くの場所で当たり前のように見られることでもある。この時、大きな目標を目指す目印としての個々の成果とは異なり、小さな成果の積み重ねそのものが自分未来を決定づけると考えると考えると、これまで書いてきたように拘らないということはおそらく容易ではない。
 しかし、この葛藤を承知した上でも敢えて言うなれば、過去に価値を置きすぎるべきではない。私たちは未来のために生きているのだから。だとすれば、結果はわかった瞬間に過去となることの意味を考えてみるのも意味があると思う。